2020年1月18日 更新

【京都史跡ぶらり】東海道沿いの最大級刑場!NHK大河ドラマ『麒麟がくる』明智光秀ゆかり☆「粟田口刑場跡」

汁物大好きな三杯目 J Soup Brothersです!FU~FU~☆彡今回は山科区、九条山にある江戸時代の刑場跡。NHK大河ドラマでも注目の戦国武将・明智光秀の遺体も晒され、歴史深い史跡。

戦国武将・明智光秀の遺体も晒された刑場跡

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東山区、三条通り。かつて江戸時代には、江戸と京都を結ぶ大動脈『東海道』だった通り。今では自動車がせわしなく行き来してますが、その時代の名残りを感じる文化財や史跡が今でも随所にあります。

最近では、東海道53次の昔の面影をしのぶ史跡めぐりツアーが人気で、当時の感覚を味わうために歩いたり自転車でたどる人もいたり。こちらは東山三条界隈。ここからさらに東海道を東へ。
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地下鉄蹴上駅を越え、さらに進み九条山へ。
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以前あった、九条山の名物だった美術館廃墟。昨年撤去されたみたいですね。跡形もなく消えていました。いつ崩落するかわからない危険な状態だったので、近隣住民の方にとっては安堵のことでしょう。
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そんな場所にある、案内板。江戸時代まで京都で最大級の「粟田口刑場」があった場所。

かつて「京の七口」の一つであった粟田口は、東海道と京都の町を結ぶ入り口。昔はそんな街道口の町はずれに決まって刑場が設置され、多くの通行人への晒しもの、見せしめにされていました。

ここ東にある粟田口刑場に対して、西にある円町の「西土手刑場」もまた、そういった意味合いの立地場所だったのかもしれません。

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江戸時代の資料に、当時の刑場周辺の地図。

当時、この場所では公開処刑、磔(はりつけ)、獄門、火刑がおこなわれていました。江戸時代には毎年3回。のべ約15000人ほどがここで処刑されたとも言われています。かつて日ノ岡峠のこの刑場を望む山裾には刑死者の霊を弔う供養塔が何基も建てられました。

今年からスタートするNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、今注目の戦国武将・明智光秀の遺体が晒された場所でもあり、さらには多くのキリシタンがかつて処刑された場所でもあり、歴史的人物ゆかりの地とも言える場所。
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さらに東へ進み、少し下ったあたり。
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東海道沿いですが、車で通ると気づかないような、山中の鬱蒼とした空間。古い、石碑らしいものが高台にあります。
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かなり古そうな石造りの石碑。「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれた粟田口刑場名号碑。

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明治5年(1872年)に、この場所に粟田口解剖所が設けられ、近代医学の発展にも寄与。その後、青蓮院内の京都府立医大病院の前身・京都療病院に仮解剖所が設置され移転。

これらの石碑はそのころ建てられたものだそうです。

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さらに東へ行くと、またべつの粟田口名号碑も。
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さらに東へ進むと、かつての京阪電鉄京津線あとだったり。

多くの歴史に彩られた東海道沿いにこんな刑場があったとは。今では車の往来激しく、かつてそんな場所だったことをうかがい知る要素といえば、これらの石碑くらいですが。

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基本情報

名称:粟田口刑場跡
住所:京都市山科区厨子奥花鳥町
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