近江(滋賀)に向かう街道へ続く歴史深い橋
京都御苑から荒神口通を東に約300メートル進んだ場所にある『荒神橋』。江戸時代、京の七口の関所的な橋として、当時は簡単な仮橋が架けられていたそうです。その後、1867年大政奉還時、西本願寺・賀陽宮(かやのみや)朝彦親王の勧告により、帝の避難路として備え架けかえられ、別名「御幸橋」「勤王橋」とも呼ばれ、三条大橋や五条橋のような擬宝珠が付いた立派な高欄を備えた橋に。その後、1914年に現在の鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられ、1935年の洪水では多くの橋が流失した中、荒神橋はそれを免れました。
さらに、戦後においては1953年におこった学生運動で、橋上に大学生約100人と警官隊が衝突。大学生十数人が木製の欄干とともに落下して重軽傷を負った「荒神橋事件」。
個人的な思い出としては、部活で鴨川沿いを走る時のスタート地点がここ荒神橋。その時、ちょうど近くにある京都府立医大の食堂の方が鴨川にいるユリカモメに残飯であるパン耳を与える時間帯で、さながらヒッチコック映画『鳥』のような光景で、さらに頭上からよくフンを落とされた記憶のある場所(笑)
さらに、戦後においては1953年におこった学生運動で、橋上に大学生約100人と警官隊が衝突。大学生十数人が木製の欄干とともに落下して重軽傷を負った「荒神橋事件」。
個人的な思い出としては、部活で鴨川沿いを走る時のスタート地点がここ荒神橋。その時、ちょうど近くにある京都府立医大の食堂の方が鴨川にいるユリカモメに残飯であるパン耳を与える時間帯で、さながらヒッチコック映画『鳥』のような光景で、さらに頭上からよくフンを落とされた記憶のある場所(笑)
基本情報
名称:荒神橋
場所:京都市左京区吉田下阿達町~上京区亀屋町
場所:京都市左京区吉田下阿達町~上京区亀屋町
18 件
かつて平安京の時代に、日本全国から京へと続く街道のほとんどが整備されました。その後、豊臣秀吉によって外敵から京都を守るために設けられた大きな塀ともいえる土塁『御土居』。