2022年5月25日 更新

【京都】長岡京「ボタンの寺」に今年は一株の花 空海と最澄が出会った場所

 飛鳥時代に聖徳太子によって建立されたとされるき長岡京市の乙訓寺は、4月下旬から5月上旬にかけて、境内に咲き誇る2000株を越えるのボタンの寺としても有名です。

長岡京市の「ボタンの寺」

飛鳥時代に建立された古刹 乙訓寺

飛鳥時代に建立された古刹 乙訓寺

 2022年5月4日に訪問すると、ボタン祭も新型コロナウイルスの影響と、生育不良により、2022年は中止となり、境内には1株のみひっそりと真っ白な花を咲かせていました。

 大慈山 乙訓寺のある地には、二千年前の弥生時代から多くの人々が住み着いていました。継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築かれたともいわれるこの景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させました。この寺が即ち乙訓寺だと伝承されます。
早良親王の供養塔

早良親王の供養塔

 延暦三年(784)、桓武天皇が長岡京に遷都したとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築します。この当時の境域は、難波京の大安殿に匹敵する規模であったと言います。翌年、藤原式家の種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王をこの地に幽閉しました。早良親王は、無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に憤死したと伝わります。境内にはその供養塔が建てられています。
空海と最澄が出会ったところ

空海と最澄が出会ったところ

 嵯峨天皇は、弘仁二年(811)十一月九日太政官符をもって弘法大師空海を別当にします。現在の乙訓寺の本尊八幡弘法合体大師像はこの時に彫られたものと伝わります。弘仁三年(812)十月には、乙訓寺を訪れた天台宗祖の最澄と、密教の法論を交わし灌頂の儀の契りを結びました。
蕾は膨らんだ段階で切り落とされた。

蕾は膨らんだ段階で切り落とされた。

 乙訓寺は、境内に咲き誇る2000株を越えるのボタンの寺としても有名です。例年、4月中旬から5月中旬にかけて、ぼたん祭りを開催していますが、新型コロナウイルスの影響と、生育不良により、2022年は中止となりました。木の養生を最優先とし、蕾は膨らんだ段階で切り落としてあります。わずかに、八幡さんの鳥居の傍らに1株が愛でることができます。また、例年「乙訓寺・ぼたん祭り」の期間内に行なっている「本堂内拝観」「小林静山仏画展」「毘沙門天立像の特別無料拝観」等も中止されています。
 (222978)

 住職さんは、「秋には紅葉のアーチも綺麗です。そのころにはコロナも落ち着いていることを願います」と話されていました。
秋には紅葉のアーチも

秋には紅葉のアーチも

 ぜひ1度訪れてみてください!

基本情報

名称:大慈山 浄妙院 乙訓寺(真言宗 豊山派)
住所:京都府長岡京市今里3−14−7
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Sinosino Sinosino