2019年9月28日 更新

【京都史跡ぶらり】日本初の人体解剖の地!無惨な歴史も残るかつての京の牢獄☆「六角獄舎跡」

汁物大好きな三杯目 J Soup Brothersです!FU~FU~☆今回は中京区、三条会商店街下がった場所にある武信稲荷神社の隣。かつての牢獄跡で、日本初の人体解剖が行われた日本医学史上にも残る場所。

マンションの敷地内にあるかつての京の牢獄

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中京区、堀川六角をさらに西へ。ちょうど武信稲荷神社の向かいにあるマンション。
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そのマンションの塀の前にこんな石碑が。

一つは『日本近代医学発祥』、そしてもう一つには『勤王志士平野国臣外数十名終焉趾』とあります。
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さらに塀敷地内の駐輪所横にも大きめの石碑が。
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かなり古い趣きの石碑。『殉難勤王志士忠霊塔』。

かつて、この辺りには平安時代の左獄・右獄を前身とする牢獄、三条新地牢屋敷があった場所。移転を繰り返しつつも、宝永5年(1708年)の京都大火以降ここ六角通りに移転。六角獄舎または六角獄と呼ばれるように。

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わりと新しい雰囲気の石碑。『日本近代医学のあけぼの山脇東洋観臓之地』とあります。

宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所がここ。解剖には死刑囚が用いられました。
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禁門の変(1864年)の頃には、国事犯や過激な尊皇攘夷派の志士たちも収監。その際起きた火災(どんどん焼け)は、六角獄舎手前までにも及びました。

責任を任されていた京都町奉行の滝川具挙は、過激な志士達の脱走を恐れ、生野の変首謀者・平野国臣、天誅組の変の水郡善之祐(河内)乾十郎(大和)など、未決囚を含む33名を処刑。皮肉にも、火災は六角獄舎手前で鎮火。明治以後、六角獄舎は埋め立てられ保護施設として改築。

日本近代医学史上においては、医療への進歩につながった要所ではありますが、その裏にはこんな悲劇的な歴史もある場所だったんですね。

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