目次
2つの史跡が残る場所
まずは時代の古い方から。
天下統一を成し遂げた戦国武将・豊臣秀吉(1537~98年)が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲や鴨川氾濫に備え、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして、総延長22.5㎞にも及ぶ土塁(土手)や堀『御土居』を築造。市内には現在でも御土居跡の見られる場所がいくつかあり、その中でもこちらは鴨川沿いの御土居跡。
この御土居内側の最寄りには、かつての京都新城・北政所寧々邸があり、以前京都御所の発掘調査でもそれが明らかになっています。さらにここから北上した場所には、『源氏物語』の作者として知られる紫式部の邸宅址『廬山寺』があり、御土居跡の一部、土塁が墓地に残り、今も見ることができます。
それに比べこの場所は、特に地面に目立った高低差があるわけでもなく割とフラットなので、ここに御土居があったことを想像できませんが、他の御土居跡では未だ土塁の一部が現代の町並みに溶け込みつつも不思議な印象を与え、その存在感を発揮しています。
天下統一を成し遂げた戦国武将・豊臣秀吉(1537~98年)が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲や鴨川氾濫に備え、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして、総延長22.5㎞にも及ぶ土塁(土手)や堀『御土居』を築造。市内には現在でも御土居跡の見られる場所がいくつかあり、その中でもこちらは鴨川沿いの御土居跡。
この御土居内側の最寄りには、かつての京都新城・北政所寧々邸があり、以前京都御所の発掘調査でもそれが明らかになっています。さらにここから北上した場所には、『源氏物語』の作者として知られる紫式部の邸宅址『廬山寺』があり、御土居跡の一部、土塁が墓地に残り、今も見ることができます。
それに比べこの場所は、特に地面に目立った高低差があるわけでもなく割とフラットなので、ここに御土居があったことを想像できませんが、他の御土居跡では未だ土塁の一部が現代の町並みに溶け込みつつも不思議な印象を与え、その存在感を発揮しています。
基本情報
名称:御土居跡 山本覚馬・八重邸宅跡
場所:京都市中京区河原町通御池南西角
場所:京都市中京区河原町通御池南西角
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