2021年12月29日 更新

長岡京の戦国 織田信長に翻弄されながらも誇りを守った知られざる国衆たち!

【昭和男子の京都時空紀行】今では、京都市内から阪急電車でわずか17分、まさに隣町の長岡京市、乙訓と呼ばれるこの地と向日市のあたりにかつて平安京と変わらない規模の大きな都・長岡京がありました。

平安京と変らぬ規模の長岡京

中世には乙訓郡と、葛野郡の桂・川島付近をあわせた一帯は、西岡(にしのおか)と呼ばれていました。西岡36人衆と呼ばれた室町幕府の御被官衆(親衛隊)は応仁の乱の後、国衆として、立場を越えて地域としての連帯を強め、西岡地域を自治していきます。しかし、そこにいよいよ織田信長か進出をしてくるのです……。2021年、年の瀬も迫った12月、その長岡京市を訪ねました。
平安京と変らぬ規模の長岡京

平安京と変らぬ規模の長岡京

 桓武天皇は平安京に都を移す784年に平城京から長岡京へと都を移し、その僅か10年後に長岡京を捨て、平安京へと都を移しています。
 治水不安もあった土地柄、造営責任者だった藤原一族式家の藤原種継の暗殺などもきっかけとしてたった10年で捨てられてしまった幻の都なのです。しかしその規模は平安京と変らぬ規模であったことが近年の調査で分かっています。
 中山修一記念館でその詳細を知ることが出来ます。
神足神社の空堀と土塁

神足神社の空堀と土塁

 中世には、乙訓地域(現在の向日市や長岡京)と、葛野郡の桂・川島付近を合わせた地域が、西岡(にしのおか)と呼ばれていました。
 松尾社、天竜寺、東寺、石清水八幡といった寺社、近衛、鷹司など摂関家などの所領が入り乱れる土地でしたが、今井溝を始めとする農業用水や小畑川の治水、交通・交易など広域に係わることを合同で対処する中、西岡一揆と呼ばれる惣国一揆を起こせるほどの独立した惣国として発展してきたのです。
 国人衆は、地域の要所に城館を構えていました。小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼす神足村の国衆が神足氏でした。現存する遺構として、神足神社の境内に空堀や土塁が残っています。
国人衆の指導的立場だった神足氏

国人衆の指導的立場だった神足氏

 十四世紀末には小塩庄の下司職は神足氏が世襲するとことなっていました。室町時代には幕府の御家人に取りたてられ、管領家細川氏の被官となります。応仁の乱の後、西岡被官衆はそれぞれの立場を越えて地域としての連帯を強めていきます。長享元年(1487)の書状から、神足孫左衛門尉友善は鶏冠井・小野・竹田・物集女・平氏らとともに西岡被官衆の指導者的立場にあったことがうかがえます。そしていよいよ織田信長が畿内に進行してきました。
開田城復元模型

開田城復元模型

 元は菅原道真の一族という中小路家は、代々開田天満宮(現在の長岡天満宮)の神官でした。現在は長岡天神駅のあるアゼリア通りとなっている地域、この一族もまた、かつてのこの開田地域を支配する国衆でもありました。マンションの中に開田城の復元模型が展示されています。
マンションの敷地内にある開田城跡の土塁公園

マンションの敷地内にある開田城跡の土塁公園

 中世では、一つの地区のまとまりは「郷」、いくつかの郷の集まりを「惣」、さらに広域のまとまりを「国」または「惣国」といいました。西岡の地は強力な守護大名によって上から直接的に支配されることが少なく、「国」と呼ばれる地域連合体となりました。地域の要所に城館を構える土豪たちによって守り抜かれてきたのです。
国衆の結束拠点だった勝竜寺城

国衆の結束拠点だった勝竜寺城

 細川ガラシャ輿入れの城、明智光秀最後の砦として注目を浴びた勝龍寺城ですが、信長上洛当時は青龍寺城と呼ばれ、国衆たちの結束地点でもありました。青龍寺城は、神足氏の居城を取り込んで造られ、小畑川と犬川の合流点付近に位置し、西に西国街道のある要地でした。 
 かつて京を窺う南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築き、この頃、藤孝が青龍寺城を居城としていたと伝承されていますが、十四世紀には城は存在せず、これらは、後の天正年間に、西岡支配の正当性を土豪たちに示すために細川氏によって創り上げられた物語だと言われています。
勝龍寺城の戦い

勝龍寺城の戦い

 さて、織田信長の侵攻が始まりました。三好三人衆の一人岩成友通が、この青龍寺城に立てこもります。西岡御被官衆からは、鶏冠井と能勢衆、秋山衆や野田衆が従いました。しかし、神足氏や中小路氏、革嶋氏などは織田軍に従います。西岡の国衆も真っ二つに分かれて戦うことになったのです。
 織田軍は、一万を超える大軍を率いて、桂川を越え、小畑川沿いに陣取りました。神足氏や中小路氏のように普段は生業に従する地侍と違い、専ら合戦に従する動きは敏にして、統制され、滅法強い、農繁期に関わらず、あちこち攻め込める、まさに傭兵軍団でした。圧倒的な兵力の差を目の当たりにした国衆たちの思いはいかなものであったでしょう。
 
織田軍の陣取った小畑川と勝龍寺城大門橋

織田軍の陣取った小畑川と勝龍寺城大門橋

 信長が足利義昭を奉じての上洛であったため、室町幕府の御被官衆としての臣従でしたが、信長の義昭追放によって、室町幕府との決別を余儀なくされ、国衆たちは信長傘下の細川藤孝の支配下に置かれることになります。そして天正三年(1575)に物集女忠重が細川氏の代官であった松井氏に謀殺された勝龍寺騒動を経て、天正八年(1580)、藤孝が丹後へ転封となりました。
 その際、国衆たちは、今度は土地を捨て、武士として藤孝に同道するか、百姓衆として地に残るかの選択を迫られたのです。神足掃部は息子たちを宮津に行かせ、自らは土豪として乙訓の地に残りました。開田天満宮の神官であった中小路氏もしかりです。
霧島つつじや紅葉で知られる長岡天満宮

霧島つつじや紅葉で知られる長岡天満宮

中小路氏は現在もなお、長岡天満宮の神職を受け継いでいます。

スポット情報

開田城土塁公園 京都府長岡京市天神1
神足神社 京都府長岡京市東神足2丁目5
中山修一記念館 京都府長岡京市久貝3丁目3−3
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Sinosino Sinosino