平安京と変らぬ規模の長岡京
中世には乙訓郡と、葛野郡の桂・川島付近をあわせた一帯は、西岡(にしのおか)と呼ばれていました。西岡36人衆と呼ばれた室町幕府の御被官衆(親衛隊)は応仁の乱の後、国衆として、立場を越えて地域としての連帯を強め、西岡地域を自治していきます。しかし、そこにいよいよ織田信長か進出をしてくるのです……。2021年、年の瀬も迫った12月、その長岡京市を訪ねました。
神足神社の空堀と土塁
中世には、乙訓地域(現在の向日市や長岡京)と、葛野郡の桂・川島付近を合わせた地域が、西岡(にしのおか)と呼ばれていました。
松尾社、天竜寺、東寺、石清水八幡といった寺社、近衛、鷹司など摂関家などの所領が入り乱れる土地でしたが、今井溝を始めとする農業用水や小畑川の治水、交通・交易など広域に係わることを合同で対処する中、西岡一揆と呼ばれる惣国一揆を起こせるほどの独立した惣国として発展してきたのです。
国人衆は、地域の要所に城館を構えていました。小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼす神足村の国衆が神足氏でした。現存する遺構として、神足神社の境内に空堀や土塁が残っています。
松尾社、天竜寺、東寺、石清水八幡といった寺社、近衛、鷹司など摂関家などの所領が入り乱れる土地でしたが、今井溝を始めとする農業用水や小畑川の治水、交通・交易など広域に係わることを合同で対処する中、西岡一揆と呼ばれる惣国一揆を起こせるほどの独立した惣国として発展してきたのです。
国人衆は、地域の要所に城館を構えていました。小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼす神足村の国衆が神足氏でした。現存する遺構として、神足神社の境内に空堀や土塁が残っています。
勝龍寺城の戦い
さて、織田信長の侵攻が始まりました。三好三人衆の一人岩成友通が、この青龍寺城に立てこもります。西岡御被官衆からは、鶏冠井と能勢衆、秋山衆や野田衆が従いました。しかし、神足氏や中小路氏、革嶋氏などは織田軍に従います。西岡の国衆も真っ二つに分かれて戦うことになったのです。
織田軍は、一万を超える大軍を率いて、桂川を越え、小畑川沿いに陣取りました。神足氏や中小路氏のように普段は生業に従する地侍と違い、専ら合戦に従する動きは敏にして、統制され、滅法強い、農繁期に関わらず、あちこち攻め込める、まさに傭兵軍団でした。圧倒的な兵力の差を目の当たりにした国衆たちの思いはいかなものであったでしょう。
織田軍は、一万を超える大軍を率いて、桂川を越え、小畑川沿いに陣取りました。神足氏や中小路氏のように普段は生業に従する地侍と違い、専ら合戦に従する動きは敏にして、統制され、滅法強い、農繁期に関わらず、あちこち攻め込める、まさに傭兵軍団でした。圧倒的な兵力の差を目の当たりにした国衆たちの思いはいかなものであったでしょう。
織田軍の陣取った小畑川と勝龍寺城大門橋
信長が足利義昭を奉じての上洛であったため、室町幕府の御被官衆としての臣従でしたが、信長の義昭追放によって、室町幕府との決別を余儀なくされ、国衆たちは信長傘下の細川藤孝の支配下に置かれることになります。そして天正三年(1575)に物集女忠重が細川氏の代官であった松井氏に謀殺された勝龍寺騒動を経て、天正八年(1580)、藤孝が丹後へ転封となりました。
その際、国衆たちは、今度は土地を捨て、武士として藤孝に同道するか、百姓衆として地に残るかの選択を迫られたのです。神足掃部は息子たちを宮津に行かせ、自らは土豪として乙訓の地に残りました。開田天満宮の神官であった中小路氏もしかりです。
その際、国衆たちは、今度は土地を捨て、武士として藤孝に同道するか、百姓衆として地に残るかの選択を迫られたのです。神足掃部は息子たちを宮津に行かせ、自らは土豪として乙訓の地に残りました。開田天満宮の神官であった中小路氏もしかりです。
スポット情報
開田城土塁公園 京都府長岡京市天神1
神足神社 京都府長岡京市東神足2丁目5
中山修一記念館 京都府長岡京市久貝3丁目3−3
神足神社 京都府長岡京市東神足2丁目5
中山修一記念館 京都府長岡京市久貝3丁目3−3
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治水不安もあった土地柄、造営責任者だった藤原一族式家の藤原種継の暗殺などもきっかけとしてたった10年で捨てられてしまった幻の都なのです。しかしその規模は平安京と変らぬ規模であったことが近年の調査で分かっています。
中山修一記念館でその詳細を知ることが出来ます。