2020年4月5日 更新

【京都お寺めぐり】しば漬と大原女発祥地☆山里にある『平家物語』ゆかりの尼僧寺院「寂光院」

汁物大好きな三杯目 J Soup Brothersです!FU~FU~☆彡今回は左京区大原の里山にある天台宗寺院。かつては尼寺として知られ『平家物語』ゆかりのお寺。

京都の奥座敷・大原の里山にある『平家物語』ゆかりの尼寺

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左京区大原。若狭路を挟み、東方面には三千院。その反対側。じつはかつて、この界隈の民宿でバイトしていた経験があり、バス停からそこそこの傾斜を上り、その集落の一番奥まで通っていました(笑)ちょっと不便な場所です。まあ、その人里離れたところが大原の良さでもあり。

かつて大原は貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた場所。
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最近注目の発酵食品。中でも京都なら京漬物が有名ですが、その中でもここ大原名産のしば漬は京都三大漬物の一つ。

その由来として、これから伺うお寺・寂光院とも関わりがあります。さらに平安時代、大原は炭の産地として知られ、それを行商する『大原女(おはらめ)』のルーツとなるお寺。大原女は京都三大祭の一つ、時代祭の行列でも登場。
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じつは、バイトしていた場所から目と鼻の先くらい近くにあるのに、今回生まれて初めて訪問(笑)そのころ行っておけば、と昔も今も思いました。後でそのことにも触れますが。
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山号を清香山と称する天台宗の寺院で尼寺。

寺伝によれば推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したとされる。これには諸説あるため、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地としての方が、お寺としてはより周知されています。

文治元年(1185年)9月、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残った高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である建礼門院徳子(平清盛の娘)は阿波内侍を頼って入寺。出家して尼僧となりここで余生を送ったとされる。

文治2年(1186年)、後白河法皇が徳子をたずねて寂光院を訪れたことは『平家物語』の「大原御幸」でも語られ、「諸行無常」を象徴するエピソードとして知られています。
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三千院も同様ですが、個人的に苔の美しさに魅了されます。苔むした庭園前の入り口屋根。
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石段を上り、寺門へ。
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境内。桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた本堂。わりと新しめの建物。
というのも、平成12年(2000年)年に京都中に衝撃が走りました。放火によって焼失。私も当時ショックを受けたことを記憶しています。ですが、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17年(2005年)年落慶。

本堂には聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊がありましたが、火災により焼損。現在は修復された地蔵菩薩立像が安置。
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本堂東側のある四方正面の池。
北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設け、池の四方は回遊出来るように小径を設置。周りに植栽が施され、四方どこから見ても正面となるよう設計。紅葉シーズンには美しい景観をつくります。
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さらに山手。こちらは地元の氏神さまのようですが、一般の参拝客は進入禁止になっています。
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建礼門院徳子 御庵室跡。
本堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡がある。現在は石碑が立つのみだが、御庵室跡の右手奥に女院が使用したという井戸が残る。

建礼門院に仕えた阿波内侍の衣装が、『大原女』スタイルの原型とされています。さらにしば漬も、この地で献上された漬物を建礼門院が気に入り『紫葉漬』と命名された、と今に伝えられています。
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諸行無常の鐘楼
江戸時代に建立。鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752年)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶。

今ある大原の名産や伝統のルーツともいえるお寺。4月中旬には遅咲きの八重桜も見ごろを迎えます。ぜひお立ち寄りください。

寂光院へのツイート

詳細情報

住所:京都市左京区大原草生町676
電話:075-744-3341
拝観時間:9:00~17:00
拝観料:600円
アクセス:京都バス「大原」下車 徒歩15分
公式サイト:http://www.jakkoin.jp/
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