ブラタモリでも紹介された京都山科にあった幻の巨大要塞
街歩きの達人・タモリさんが“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫るNHK人気番組「ブラタモリ」。街の新たな魅力や歴史・文化などを深堀する番組で、案外地元民が知らなかった知見にも巡り合えたり。
京都もこれまで数々のエリアが紹介されてきましたが、5月20日放映「京都・山科~要衝・山科は何を生んだ?~」回において、これまであまり観光スポットとして紹介されてこなかった山科の魅力について深堀されていました。
番組ではいくつかの項目でそのスポットを紹介されていましたが、今回はその中でも注目の史跡『山科本願寺』についての史跡をさらに深堀します。
京都もこれまで数々のエリアが紹介されてきましたが、5月20日放映「京都・山科~要衝・山科は何を生んだ?~」回において、これまであまり観光スポットとして紹介されてこなかった山科の魅力について深堀されていました。
番組ではいくつかの項目でそのスポットを紹介されていましたが、今回はその中でも注目の史跡『山科本願寺』についての史跡をさらに深堀します。
蓮如上人御廟所
その外寺内にある墓所『蓮如上人御廟所』。京都にはいろいろな仏教宗派、宗祖がいる中、墓所を見る限り宗教家としてかなりの権力を有したと思われる蓮如上人。かつては蓮如上人の銅像もあったそうですが戦時中に、金属供出により現在では台座部分のみが残っています。
詳細記事→ https://kyotopi.jp/articles/6Izon
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山科本願寺土塁跡
御廟所の西に隣接する内寺内にある山科中央公園。その公園内にある緑が鬱蒼とした小山。ちょっとした散策コースも設けられたこちらが『山科本願寺土塁跡』。
かつて戦国時代、この場所には「寺中広大無辺にして荘厳、さながら仏国の如し」と威容をうたわれた山科本願寺を囲う土塁のあった場所で、その一部がこの小山にあたります。「蓮如が築いた城」とも称される寺域に張り巡らされた土塁。調査によれば、土塁の高さは約6メートルあり、堀も存在し推定幅10~11メートルほど。
詳細記事→ https://kyotopi.jp/articles/c183x
かつて戦国時代、この場所には「寺中広大無辺にして荘厳、さながら仏国の如し」と威容をうたわれた山科本願寺を囲う土塁のあった場所で、その一部がこの小山にあたります。「蓮如が築いた城」とも称される寺域に張り巡らされた土塁。調査によれば、土塁の高さは約6メートルあり、堀も存在し推定幅10~11メートルほど。
詳細記事→ https://kyotopi.jp/articles/c183x
史跡山科本願寺跡公園
山科中央公園から南、御本寺にある『史跡山科本願寺跡公園』においては、発掘調査で見つかった釜風呂、現在でいうサウナなどが存在し、その間取りがわかるよう整備され、史跡の詳細を記した案内板も設置。さらに、ここにも土塁跡の続きが存在します。
詳細記事→ https://kyotopi.jp/articles/OQy9m
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山科本願寺南殿跡
こちらは晩年蓮如上人が過ごした『山科本願寺南殿跡』。御本寺、内寺内、外寺内のエリアから東の離れた場所にあり、まさしく隠居の地といった位置関係。現在はフェンスで囲われた広大な空地になっています。一時蓮如上人は石山に居を移した時期もありつつ、明応8年(1499年)まで隠居した場所。その西隣には蓮如上人ゆかりのお寺『泉水山光照寺』もあり、さらに蓮如上人ゆかりの井戸もあります。延徳元年(1489年)蓮如上人隠居の際、ここを杖で指図され掘り下げると清水がこんこんと湧き出し、この辺りで唯一の用水として活用。これを機に真宗に懐疑的だったこの辺り一帯の村民も門徒になったと伝えられています。
詳細記事→ https://kyotopi.jp/articles/dK2a3
詳細記事→ https://kyotopi.jp/articles/dK2a3
最後に
その後、山科本願寺は天文元年(1532年)、法華宗や延暦寺、六角氏に攻められ焼失。巨大な要塞の痕跡は今もこの山科に色濃く残され、『山科本願寺跡』というテーマで観光するにふさわしい充実ぶりです。これまであまり歴史観光的観点で紹介されてこなかった京都山科。ブラタモリの影響で今後注目を集めそうなスポットですね。
マップ
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こちらは現在の山科区の航空地図。山科本願寺は3つの郭(くるわ)で構成され、阿弥陀堂や宗祖親鸞の像を祀る御影堂があった「御本寺」、僧が住んだ「内寺内」、町衆の家が並んだ「外寺内」。そして晩年蓮如上人が過ごした「南殿」。