巨椋池に存在した天下人・豊臣秀吉築城の幻の水城
豊臣秀吉が文禄元年(1592年)に隠居後の住まいとして建てたこの伏見城の支城『向島城』。当時ここには巨椋池があり、その池に浮かぶ島『向島』の水城であった向島城。
文禄3年(1594年)に徳川家康が向島の私邸にて観月の宴を開催。そこに招かれた秀吉が月見を気に入り、遊山所として築城したともいわれている。
慶長元年(1596年)に発生した大地震により、指月伏見城が倒壊。その避難場所が向島城だったと言われています。秀吉の死後、徳川家康の居城ともなった向島城ですが、元和5年(1619年)に伏見城とともに廃城。
さらに昭和に入り、巨椋池の大規模な干拓工事により地理的にこの辺りも様変わりしましたが、城跡の名残りとして本丸跡と推察される区域が微高地となっているほか、本丸町、二の丸町、鷹場町などの地名が今も残されています。
かつてこの場所に湖級の広さを誇る池があり、そんな池上に城があったとは。現在の様子からは全く想像がつかない史跡。興味深いですね。
文禄3年(1594年)に徳川家康が向島の私邸にて観月の宴を開催。そこに招かれた秀吉が月見を気に入り、遊山所として築城したともいわれている。
慶長元年(1596年)に発生した大地震により、指月伏見城が倒壊。その避難場所が向島城だったと言われています。秀吉の死後、徳川家康の居城ともなった向島城ですが、元和5年(1619年)に伏見城とともに廃城。
さらに昭和に入り、巨椋池の大規模な干拓工事により地理的にこの辺りも様変わりしましたが、城跡の名残りとして本丸跡と推察される区域が微高地となっているほか、本丸町、二の丸町、鷹場町などの地名が今も残されています。
かつてこの場所に湖級の広さを誇る池があり、そんな池上に城があったとは。現在の様子からは全く想像がつかない史跡。興味深いですね。
向島城址へのツイート
さて、京都高低差崖会の梅林さん著「京都の凸凹を歩く」(青幻舎)を手に「向島城」を目指すまち歩きに出ました。まずは京阪宇治線・観月橋駅を出て宇治川を渡す「観月橋」を北から南へ進みます。今も鉄道や幹線の要衝ですが、秀吉が首都伏見にモノ・ヒト・カネの流れを集約した時から始まっています。 pic.twitter.com/Ql16dUinzR
— うたずき (@jazz4sekiyahama) March 9, 2020
基本情報
名称:向島城址
住所: 京都市伏見区向島本丸町63−4
住所: 京都市伏見区向島本丸町63−4
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