江戸時代に建てられた道標
山科区、JR駅前を南へ下り、すぐの交差点。
さらに南へ下ると三条通に当りますが、こちらの細い道が旧三条通。つまり旧東海道。
昔から京都と東国を結ぶ日本の大動脈だった街道。
昔から京都と東国を結ぶ日本の大動脈だった街道。
江戸幕府を開いた徳川家康は、その支配を盤石なものとする一策として、道路整備に着手。この時五街道を整備しましたが、その一つがこの東海道。
江戸の日本橋から京都三条大橋までの間、53つの宿場町を設けたことから、東海道53次と呼ばれ、浮世絵にも登場。
江戸の日本橋から京都三条大橋までの間、53つの宿場町を設けたことから、東海道53次と呼ばれ、浮世絵にも登場。
昔の街道らしく、古い造りの家も若干通りには残っています。その途中には、こんな街道らしい石造りの道標も。
古い家屋や愛宕参拝の常夜燈。こんな場所からすでに愛宕山の道標。昔は愛宕山行くのも、かなりの一大事だったことがうかがえます。
古い家屋や愛宕参拝の常夜燈。こんな場所からすでに愛宕山の道標。昔は愛宕山行くのも、かなりの一大事だったことがうかがえます。
さらに西へ。三条大橋に向かうことになります。
その途中、古そうな石標。
その横、ステンレス製の標柱があり、『史跡 五条別れ道標』と書かれています。
じつはこの石標、京都市指定の登録文化財、史跡になります。
江戸時代に建てられたもので、東からの通行人に五条・伏見方面への近道となる分岐点を示す役割を担ったもの。
江戸時代に建てられたもので、東からの通行人に五条・伏見方面への近道となる分岐点を示す役割を担ったもの。
石柱の面によって書かれている内容が違い、それによって方角を表しています。
石標の東面『左ハ五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐまきよ水 道』と書かれています。大佛はかつての七条大仏、きよ水は清水寺ですね。
石標の東面『左ハ五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐまきよ水 道』と書かれています。大佛はかつての七条大仏、きよ水は清水寺ですね。
北面『右ハ三条通』。この通りをまっすぐ行けば三条通ということですね。
さらに西面『願主 沢村道範』。
この頃、ほかにも同様の石標が建てられ、いずれもこの沢村道範という人が建立。
この頃、ほかにも同様の石標が建てられ、いずれもこの沢村道範という人が建立。
南面『宝永四 丁亥 年十一月吉日』。建立された時期ですね。
その五条へと向かう道がこちら。昔もこんな道幅だったんですかね。京都薬科大学横を通る細道。ここを南下してみます。
すると現在の三条通に当ります。今の旧三条通とは比べものにならないほどの交通量。当然と言えば当然ですが。
さらにこの通りは南へ続き、五条通へとつながります。
さらにこの通りは南へ続き、五条通へとつながります。
バス停の駅名も『五条別れ』。
昔の呼び名として、分岐点に『別れ』と付けるのが京都流のようで、他にも『柊野別れ』という地名があり、こちらも分岐点を指します。
なんとも古めかしい昔の呼び名がそのまま地名になった場所。かつての様子が偲ばれますね。
昔の呼び名として、分岐点に『別れ』と付けるのが京都流のようで、他にも『柊野別れ』という地名があり、こちらも分岐点を指します。
なんとも古めかしい昔の呼び名がそのまま地名になった場所。かつての様子が偲ばれますね。
五条別れ へのツイート
旧東海道、五条別れ道標。いよいよ旧東海道終点の三条大橋への道です。石造古道標には、「右ハ三条道、左ハ五条橋」と刻まれております。#tokaiHK pic.twitter.com/vC5TfGHkPq
— Hitosh (@thitosh) September 27, 2019