日本三大祭『祇園祭』の起源にもなる神社
平安時代、疫病の流行を鎮めるため、播磨国飾摩より牛頭天王を勧請し鎮疫祭を行ったのが神社の起源とされます。その際、梛の林中の御供石に神輿を置いて祀ったことが社名の由来ともされ、のちに今の祇園社(八坂神社)に遷座されたことから、「元祇園社」と呼ばれるように。
その『御供石(ごくいし)』は北側にある鳥居をくぐるとスグに案内板。
この案内板の後ろの鬱蒼とした場所にその御供石があります。のぞき込まないと見えないような場所に鎮座。もとは下京区万寿寺通烏丸西入の御供石町から昭和七年に移されました。というか、町名にもなっている石なんですね。
そして、こちらでは本殿が2つ横並びになっていて、その中央に社名の由来になった梛の木があります。境内の南側が梛神社。御祭神は牛頭天王(素戔嗚尊)。
後に八坂神社に遷座される際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったことが祇園会(祇園祭)の起源であるとされ、山鉾の中でも歴史の古い傘鉾のルーツはここから来ている、と言われています。
後に八坂神社に遷座される際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったことが祇園会(祇園祭)の起源であるとされ、山鉾の中でも歴史の古い傘鉾のルーツはここから来ている、と言われています。
向かって、北側にあるのは隼神社(はやぶさじんじゃ)。延喜式内社では主祭神・建甕槌神(たけみかづちのかみ)とされていますが、実際には隼を祀ったとか。勝運の御利益ありとされています。
創建は不詳ながら、平安期朱雀院の院内に祀られた神社とされ、江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒に御利益があるとして信仰を集めました。その後大正7年(1918年)現在地の梛神社境内に遷座。
創建は不詳ながら、平安期朱雀院の院内に祀られた神社とされ、江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒に御利益があるとして信仰を集めました。その後大正7年(1918年)現在地の梛神社境内に遷座。
摂社・田中神社もあります。
そして、その傍らの白い紫陽花がちょうど見頃。
さらに境内東側には上川稲荷。
そして、そろそろ夏越の祓の時期ということで、境内にはポスターも。
神社によってはすでに茅の輪が設置されているところもあるようですが、こちらでは当日30日に登場するとのこと。
神社によってはすでに茅の輪が設置されているところもあるようですが、こちらでは当日30日に登場するとのこと。
茅の輪のお守りはすでに社務所でも授与されていました。
そして、以前参拝した時に叶わなかった御朱印を、今回は記帳していただくことに。梛神社と隼神社の御朱印がこちら。
今回は梛神社の御朱印をいただきました。緑色の梛の葉の印もあります。長引くコロナ禍、早期収束を願い、夏越の大祓神事にも参拝したいですね。
この日は梅雨の晴れ間で近くを通りかかり、久々に参拝しようとやってきました。東側の鳥居から。