日本画・木島櫻谷の作品50面の襖絵を初公開
そんな南禅寺からねじりまんぽへ向かう途中にある塔頭・南陽院。以前からずっと拝観したかったお寺でしたが、まったく公開している気配なく。以前、お寺で収穫された花梨の実が門前に置かれ、ご自由にお取りください、と。遠慮なくいただき、家で花梨酒をつくりましたが、境内には花梨の木があるんだなぁと想像を巡らしつつ、実際外からはまったくお庭の様子がわからないお寺でした。
それが、今回お寺を初公開し、さらに明治~大正時代に活躍した日本画の大家・木島櫻谷の未公開襖絵を特別公開とのこと。
南陽院は南禅寺塔頭寺院。明治43年(1910年)焼失していた南禅寺法堂の再建に尽力した第4代南禅寺派管長豊田毒湛(高源室)(1840~1917)が隠退後の居所として篤信家の丹治直治郎から寄進され開創したお寺。境内には7代小川治兵衛作庭の池泉式庭園を有する。櫻谷は南禅寺法堂の天井画制作を依頼された師・今尾景年の高弟として参加。櫻谷は毒湛に深く心を寄せたといいます。
南陽院は南禅寺塔頭寺院。明治43年(1910年)焼失していた南禅寺法堂の再建に尽力した第4代南禅寺派管長豊田毒湛(高源室)(1840~1917)が隠退後の居所として篤信家の丹治直治郎から寄進され開創したお寺。境内には7代小川治兵衛作庭の池泉式庭園を有する。櫻谷は南禅寺法堂の天井画制作を依頼された師・今尾景年の高弟として参加。櫻谷は毒湛に深く心を寄せたといいます。
木島櫻谷は、1877年三条室町の商家に生まれ、16歳で京都画壇の大家・今尾景年に師事。と同時に儒医山本渓愚に儒学、本草学を学びました。その非凡な才能は早くから頭角を現し、京都画壇の人気作家として注目。
こちらは北野白梅町にある木島櫻谷旧邸に以前訪れた時の様子。動植物の生き生きとした描写が印象的でした。
こちらは北野白梅町にある木島櫻谷旧邸に以前訪れた時の様子。動植物の生き生きとした描写が印象的でした。
基本、室内の作品撮影は禁止ですが、一部玄関に配置された木島櫻谷筆・双鹿図とお庭は撮影可能。
7代小川治兵衛作庭の池泉式庭園。お庭には琵琶湖疏水の水を取り込んだ、この南禅寺界隈のお庭らしい風情。明治期に作庭されたことと、手入れが行き届いているため、わりと新しい印象を受けました。
そして、本堂には櫻谷が34歳の最盛期、明治43年(1910)に制作され、櫻谷がそれまで写生に訪れた日本各地の風景をもとに描いた作品、5室50面。こんな具合に作品が配置されています。
本堂は南禅院のように中央仏壇があり、そのまわりを仏間が取り囲んでいるようなの間取り。今回はかなり近くまで接近して作品を鑑賞することができ、ちょっと興奮するほど。
これまでの私が見た櫻谷の作品にはない、墨を丹念に重ねぼかしで濃淡を出しつつ、柔和で穏やかな絵が多く、慈愛に満ちた印象を受けました。最後の達磨図には肌色を使い、京都のお寺の数ある達磨図の中で、とても朗らかで優しい印象を受けました。櫻谷にとっての達磨大師はそんな印象なのかもしれませんね。
本堂は南禅院のように中央仏壇があり、そのまわりを仏間が取り囲んでいるようなの間取り。今回はかなり近くまで接近して作品を鑑賞することができ、ちょっと興奮するほど。
これまでの私が見た櫻谷の作品にはない、墨を丹念に重ねぼかしで濃淡を出しつつ、柔和で穏やかな絵が多く、慈愛に満ちた印象を受けました。最後の達磨図には肌色を使い、京都のお寺の数ある達磨図の中で、とても朗らかで優しい印象を受けました。櫻谷にとっての達磨大師はそんな印象なのかもしれませんね。
建物には明治期の加工技術の高さを建築様式に見て取れたり。
今回の特別展はこの日が最終日で、今後公開予定は今のところないそうですが、南禅寺界隈には未公開エリアが他にも多くあり、またこんな機会があれば訪れてみたいな、と。
今回の特別展はこの日が最終日で、今後公開予定は今のところないそうですが、南禅寺界隈には未公開エリアが他にも多くあり、またこんな機会があれば訪れてみたいな、と。
詳細情報
名称:南禅寺塔頭・南陽院
場所:京都市左京区南禅寺福地町86−10
電話:075‐771‐4528
場所:京都市左京区南禅寺福地町86−10
電話:075‐771‐4528
もう2022年の紅葉シーズンも終了ですね。境内は散紅葉の赤い絨毯が三門前に展開してました。