豊国神社の由緒
via 藤花
慶長18年(1598)8月18日。
伏見城で62年の生涯を終えた豊臣秀吉は、遺言通り東山阿弥陀ヶ峰に埋葬されます。
翌年阿弥陀ヶ峰山腹に社殿が造営され、後陽成天皇より「豊国大明神」の神号を下賜された秀吉は、彼の願い通り神として祀られ、社殿は「豊国社(とよくにのやしろ)」と呼ばれます。
伏見城で62年の生涯を終えた豊臣秀吉は、遺言通り東山阿弥陀ヶ峰に埋葬されます。
翌年阿弥陀ヶ峰山腹に社殿が造営され、後陽成天皇より「豊国大明神」の神号を下賜された秀吉は、彼の願い通り神として祀られ、社殿は「豊国社(とよくにのやしろ)」と呼ばれます。
via 藤花
豊国社の境内は約30万坪もの広さを誇る壮麗なもので、秀吉亡き後も衰えることのない豊臣家の威光を知らしめるものでした。
しかし、大坂の陣によって豊臣家が滅亡すると、豊国社は廃社とな、秀吉の神号もはく奪されました。
社は荒れ果てやがて跡形もなくなってしまいます。
明治維新により徳川幕府が崩壊すると、明治天皇が豊国社再興の沙汰を下しました。
これにより250年ぶりに復興した豊国社は、阿弥陀ヶ峰から旧方広寺大仏殿跡に社殿を移し、今に至ります。
しかし、大坂の陣によって豊臣家が滅亡すると、豊国社は廃社とな、秀吉の神号もはく奪されました。
社は荒れ果てやがて跡形もなくなってしまいます。
明治維新により徳川幕府が崩壊すると、明治天皇が豊国社再興の沙汰を下しました。
これにより250年ぶりに復興した豊国社は、阿弥陀ヶ峰から旧方広寺大仏殿跡に社殿を移し、今に至ります。
豊国神社の見どころ
大仏殿に使用された石が使われた石垣
via 藤花
豊国神社には、秀吉が生きていた頃の建築物や石垣が残っています。
また秀吉ゆかりの宝物も多く、大変興味深いお寺です。
また秀吉ゆかりの宝物も多く、大変興味深いお寺です。
国宝唐門の重厚な姿
豊国神社の1番の見どころは、国宝に登録されている唐門です。
西本願寺・大徳寺の唐門共に「国宝の三唐門」とされているもので、旧伏見城の遺構と伝わっています。
西本願寺・大徳寺の唐門共に「国宝の三唐門」とされているもので、旧伏見城の遺構と伝わっています。
via 藤花
創建当時は彫刻に金箔がほどこしてあったそうで、今見るものよりもはるかに豪華な唐門だったことだと思います。
「豊国大明神」という扁額は、後陽成天皇の御宸筆。
「豊国大明神」という扁額は、後陽成天皇の御宸筆。
via 藤花
扁額の両脇には左甚五郎作の鶴が今にも飛びそうな躍動感!
この鶴の彫刻はそのリアルさで本当に飛んで行ってしまうかもしれないと心配して、わざと眼を入れなかったと伝わり、「目無しの鶴」という呼び名があります。
この鶴の彫刻はそのリアルさで本当に飛んで行ってしまうかもしれないと心配して、わざと眼を入れなかったと伝わり、「目無しの鶴」という呼び名があります。
via 藤花
唐門の向こうに見えるのが拝殿、その奥が本殿ですが、通常は唐門から奥に入ることはできません。
少し遠いですが、ここからのお参り。
ちなみにお正月の三が日だけは唐門が開けられ、中に入ることができます。
少し遠いですが、ここからのお参り。
ちなみにお正月の三が日だけは唐門が開けられ、中に入ることができます。
秀吉像と千成瓢箪
via 藤花
唐門の手前には、陶器製の秀吉像が鎮座しています。
実は台座も陶器製で作られてたのですが、阪神淡路大震災で壊れてしまったそうです。
実は台座も陶器製で作られてたのですが、阪神淡路大震災で壊れてしまったそうです。
via 藤花
唐門両側には、たくさんのひょうたん絵馬が奉納されていました。
そして門両側につるされた千成瓢箪(せんなりひょうたん)がすごい存在感!
ひょうたんは秀吉の馬印で、縁起物でもあるため、境内のあちこちにひょうたんモチーフがあります。
そして門両側につるされた千成瓢箪(せんなりひょうたん)がすごい存在感!
ひょうたんは秀吉の馬印で、縁起物でもあるため、境内のあちこちにひょうたんモチーフがあります。
via 藤花
お守りや手水舎にもひょうたん!
御朱印にも可愛いひょうたんの朱印が押されていました。
御朱印にも可愛いひょうたんの朱印が押されていました。
via 藤花
「大坂の陣」発端となった梵鐘
豊国神社北隣にある方広寺は秀吉が奈良の東大寺を模して造らせた大仏を安置するための寺院で、文
禄4年(1595)に創建されました。
しかし地震で破壊され、秀吉の息子・秀頼により復興したのちも再び地震で倒壊、その後に作られた大仏も火災に遭ってしまい、今は台座が残るのみとなっています。
何度造っても壊れてしまう不運続きの大仏は、秀吉亡き後の豊臣家を象徴しているようです。
禄4年(1595)に創建されました。
しかし地震で破壊され、秀吉の息子・秀頼により復興したのちも再び地震で倒壊、その後に作られた大仏も火災に遭ってしまい、今は台座が残るのみとなっています。
何度造っても壊れてしまう不運続きの大仏は、秀吉亡き後の豊臣家を象徴しているようです。
via 藤花
唯一当時を物語るものとしてあるのが、梵鐘です。
梵鐘は秀頼が大仏を復興した際に鋳造したもので、その梵鐘に刻まれた8文字の言葉。
「国家安康 君臣豊楽」
家康を「安」で引き裂き、豊臣家が君主となり楽しむと読み取った家康が激高し、大坂の陣の引き金となったとされていますが、明らかにいいがかりです。
梵鐘は秀頼が大仏を復興した際に鋳造したもので、その梵鐘に刻まれた8文字の言葉。
「国家安康 君臣豊楽」
家康を「安」で引き裂き、豊臣家が君主となり楽しむと読み取った家康が激高し、大坂の陣の引き金となったとされていますが、明らかにいいがかりです。
via 藤花
今も残るこの8文字に歴史を垣間見たようで、日本史好きの私は少し興奮してしまいました。
秀吉の歯が展示されている宝物殿
テンション高めのまま、宝物殿も拝観。
こちらには、秀吉最後の歯とされる「豊公御歯(ほうこうのおんは)」をはじめ、狩野派の絵師・狩野内膳が描いた「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」や現在は写真の美濃展示となっている刀剣「骨喰(ほねばみ)藤四郎」など、数々の貴重な文化財が展示されていました。
こちらには、秀吉最後の歯とされる「豊公御歯(ほうこうのおんは)」をはじめ、狩野派の絵師・狩野内膳が描いた「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」や現在は写真の美濃展示となっている刀剣「骨喰(ほねばみ)藤四郎」など、数々の貴重な文化財が展示されていました。
via 藤花
興味津々で見た「豊公御歯」
仏舎利のように宝塔に納められた秀吉の奥歯は思いのほか大きくてびっくりしました。
この歯を調査したところ、秀吉の血液型はO型だったとか。
私と同じ血液型で急に親近感を覚えてしまいました。
仏舎利のように宝塔に納められた秀吉の奥歯は思いのほか大きくてびっくりしました。
この歯を調査したところ、秀吉の血液型はO型だったとか。
私と同じ血液型で急に親近感を覚えてしまいました。
秀吉の残酷さを物語る耳塚
via 藤花
豊国神社の帰り道、正面通りを西へ進んですぐのところにあるのが「耳塚」です。
耳塚は、秀吉の命で行われた朝鮮出兵の際、戦功のしるしである首級の代わりに敵の耳や鼻を削いで持ち帰ったものを埋めた塚です。
朝鮮兵だけではなく女性や子供まで殺し、耳や鼻を削いだという話も残り、そのあまりにも残酷な所業に晩年の秀吉は精神的に異常をきたしていたのではないかという説もあります。
耳塚は、秀吉の命で行われた朝鮮出兵の際、戦功のしるしである首級の代わりに敵の耳や鼻を削いで持ち帰ったものを埋めた塚です。
朝鮮兵だけではなく女性や子供まで殺し、耳や鼻を削いだという話も残り、そのあまりにも残酷な所業に晩年の秀吉は精神的に異常をきたしていたのではないかという説もあります。
via 藤花
今の耳塚はそばに公園がある静かな場所となっていますが、人たらしで陽気なイメージが先行しがちな秀吉の、陰の一面を伝える史跡としてとても貴重だと思いました。
豊国神社の基本情報
・住所 京都市東山区大和大路正面茶屋町
・電話 075-561-3802
・境内自由
・宝物殿開館時間 9:00~17:00(16:30受付終了)
・宝物殿拝観料 600円
アクセス
・最寄り駅 京阪「七条」徒歩約10分
・バス 「博物館・三十三間堂前」徒歩約5分
・HP http://toyokuni-kyoto.jp/
・電話 075-561-3802
・境内自由
・宝物殿開館時間 9:00~17:00(16:30受付終了)
・宝物殿拝観料 600円
アクセス
・最寄り駅 京阪「七条」徒歩約10分
・バス 「博物館・三十三間堂前」徒歩約5分
・HP http://toyokuni-kyoto.jp/