花びら一枚一枚散っていく『五色八重散椿』が見頃
駒札に『椿寺』の文字を見つけ、椿で有名なお寺なのかと想像しつつ。
神亀3年(726年)、行基が聖武天皇の勅願により摂津国の昆陽池(こやいけ)のほとりに建立したのが始まりと伝わる。
平安時代、衣笠山南に移転し、室町時代の明徳2年(1391年)に起こった明徳の乱で焼失しましたが、足利義満が金閣寺建立の余材で再建し、地蔵菩薩を奉安。
さらに天正17年(1589年)、豊臣秀吉の命によって現在地に移転。
もとは日本の仏教の8つの宗派の教義を併せて学ぶ『八宗兼学』のお寺でしたが、寛文11年(1671年)に知恩院の末寺、浄土宗寺院となる。それ以来御本尊が五却思惟阿弥陀如来に。
神亀3年(726年)、行基が聖武天皇の勅願により摂津国の昆陽池(こやいけ)のほとりに建立したのが始まりと伝わる。
平安時代、衣笠山南に移転し、室町時代の明徳2年(1391年)に起こった明徳の乱で焼失しましたが、足利義満が金閣寺建立の余材で再建し、地蔵菩薩を奉安。
さらに天正17年(1589年)、豊臣秀吉の命によって現在地に移転。
もとは日本の仏教の8つの宗派の教義を併せて学ぶ『八宗兼学』のお寺でしたが、寛文11年(1671年)に知恩院の末寺、浄土宗寺院となる。それ以来御本尊が五却思惟阿弥陀如来に。
境内はこじんまりとした様子のお寺ですが、まず最初に目に飛び込んできたのが、本堂前のこちら。
京都市の天然記念物にも指定されている『五色八重散椿』。
朝鮮出兵、文禄の役の際に加藤清正が朝鮮・蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰ったもので、北野大茶湯で豊臣秀吉から献木されたものだそうです。初代は枯死し、現在は樹齢約120年の二世椿。
朝鮮出兵、文禄の役の際に加藤清正が朝鮮・蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰ったもので、北野大茶湯で豊臣秀吉から献木されたものだそうです。初代は枯死し、現在は樹齢約120年の二世椿。
で、一瞬これホントに椿?と思えるような、株本に散った花弁が散乱。椿というと、花ごとぽとりと落ちるもんだと思ってましたが。
この五色八重散椿は、1本の木に濃淡様々な色をもつ花を咲かせることが特徴で、その散り際には花びら1枚ずつ美しく散ることから、秀吉にも愛された名木。
この日、多くの参拝客が撮影やスケッチをされていました。
この日、多くの参拝客が撮影やスケッチをされていました。
こちらは地蔵堂。鍬形地蔵尊を安置。洛陽四十八願所地蔵霊場にも数えられています。
その西隣。観音堂に十一面観音立像を安置。
境内の裏手にひっそりとした墓地があり、そこにも椿の木があり、さらに忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のお墓もありましたが撮影できてませんでした(汗)
その代わりに、こちらが気になって。
『キリシタンの墓』と書かれ、お寺では手水鉢として使われていたそうですが、かつてのキリシタン墓碑であることが判明し、こうして墓所に。激しいキリシタン弾圧の歴史をたどりながら、お墓が残っていたりもするんですね。
『キリシタンの墓』と書かれ、お寺では手水鉢として使われていたそうですが、かつてのキリシタン墓碑であることが判明し、こうして墓所に。激しいキリシタン弾圧の歴史をたどりながら、お墓が残っていたりもするんですね。
境内には他八重紅枝垂桜の木もあり4月には開花を迎え、散椿と枝垂桜のコラボ風景も楽しめるそうです。艶やかなピンクの共演、ぜひ鑑賞してみてください!
初訪のお寺。