亀岡市を一望できる高台の首塚
京都市内から国道9号線を車で走り、亀岡市へ。その途中にある『頼政塚』交差点を西つつじヶ丘方面へ。すると、途中小学校があり、さらに高台へ向かう階段が。
若干山登り感覚で、息も切れるほどですが、道も整備されています。
登りきると、一気に視界が広がります。そして、こんな簡素な木造の鳥居。
ちょっと独特の石柱が並び、その奥にそびえたつ自然石らしい石碑。「大地主大神」と刻まれ、どうやらこのあたりを守る地主神のようです。
そこからさらに上へ。
そこからさらに上へ。
かなり古そうな石碑が立ち並び、中央にまたもや自然石をそのまま使ったような、大きな石碑が。
この時、朝日を浴びるような清々しい時間帯でしたが、なんとも少し薄気味悪い雰囲気すらあり(個人の感想)。なので、お邪魔します、と合掌。石には「従三位源公之墓」と刻まれています。
こちらは平安時代末期の武将・源頼政の首塚。
今の兵庫県川西市を本拠地とした源満仲の長男。満仲は大江の鬼退治で知られる源頼光の子孫。頼政もまた弓の名手として知られ、近衛天皇の命により、日本の伝承妖怪『鵺(ぬえ)』退治で活躍。その時使った矢じりも京都市内の神社に祀られています。
今の兵庫県川西市を本拠地とした源満仲の長男。満仲は大江の鬼退治で知られる源頼光の子孫。頼政もまた弓の名手として知られ、近衛天皇の命により、日本の伝承妖怪『鵺(ぬえ)』退治で活躍。その時使った矢じりも京都市内の神社に祀られています。
その功績がたたえられ、この周辺の地・矢田を拝領。
その後、源平合戦において、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画するも、それが露見し、平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害。
頼政の家来がここまで首を運び埋め、さらに安永8年(1779年)に頼政の子孫・松井氏の末裔・松井宗安が建立したと伝えられています。
その後、源平合戦において、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画するも、それが露見し、平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害。
頼政の家来がここまで首を運び埋め、さらに安永8年(1779年)に頼政の子孫・松井氏の末裔・松井宗安が建立したと伝えられています。
「霊体法身清浄菩薩」と刻まれた石碑が頼政塚を取り囲み、ちょっと独特で不気味な印象ですが。朝でよかった(笑)
とても見晴らしのいいパノラマスポット。史跡めぐりにいかがですか?
頼政塚へのツイート
頼政塚
— 北宇治川大豆 (@_daimame) January 19, 2020
ここ亀岡一望できる
来てよかった pic.twitter.com/wjvwvttPHg
基本情報
名称:頼政塚
住所:亀岡市大山台西つつじケ丘1丁目-18-2
住所:亀岡市大山台西つつじケ丘1丁目-18-2