花街の料亭、名門私立・立命館前身校のあった場所
上京区鴨川丸太町橋西詰、東三本木通を上がった閑静な住宅街。今はまったくその面影はありませんが、江戸時代から明治時代初期、この辺には花街『三本木』があった場所。
そんな場所の駐車場にある一角。何やら史跡らしい石碑や駒札が。
駒札には『吉田屋跡』と書かれ、その説明がうっすらと認識できます。
吉田屋(旧清輝楼)は討幕派志士・桂小五郎をはじめ長州藩の志士達たちが密会に使った料亭で、すぐ近くに長州藩があったこともあり、何かと潜伏しやすい場所だったことがうかがえます。そして、桂小五郎が新撰組に襲撃された場所としても知られています。
吉田屋(旧清輝楼)は討幕派志士・桂小五郎をはじめ長州藩の志士達たちが密会に使った料亭で、すぐ近くに長州藩があったこともあり、何かと潜伏しやすい場所だったことがうかがえます。そして、桂小五郎が新撰組に襲撃された場所としても知られています。
その吉田屋跡にさらに比較的新しい石碑が。
『立命館草創の地』と書かれ、何やら写真が埋め込まれ、当時こんな建物がここにあったことがうかがえます。
『立命館草創の地』と書かれ、何やら写真が埋め込まれ、当時こんな建物がここにあったことがうかがえます。
この石碑は立命館草創100周年を記念し、学校法人立命館によって2000年に建立されたもの。
公家であり政治家でもあった西園寺公望(1849~1940)の秘書官中川小十郎(1866~1944)は明治33年(1900)5月、法律・政治の二科を置き、私立京都法政学校(立命館大学の前身)を開校。その仮校舎としてここで講義が行われ、翌年12月広小路河原町の新校舎に移転。この石標はその仮校舎跡を示すもの。清輝楼は吉田屋のあとを受け継いだ料亭といわれ、その後平成8年(1997)まで大和屋旅館として存続していました。
鴨川の風光明媚な景色をよそに、ここから河原町通を挟んで西側には京都御所があり、幕末維新、激動の時代のキーポイントとなる場所でもあり。そんな場所に、未来を担う人材を育成する学び舎があったとは。
当時の学生はきっと現代以上の熱量と切迫感をもって勉学に励んでいたんだろうな、と。今のこのおだやかな様子とは裏腹な史跡スポットです。
鴨川の風光明媚な景色をよそに、ここから河原町通を挟んで西側には京都御所があり、幕末維新、激動の時代のキーポイントとなる場所でもあり。そんな場所に、未来を担う人材を育成する学び舎があったとは。
当時の学生はきっと現代以上の熱量と切迫感をもって勉学に励んでいたんだろうな、と。今のこのおだやかな様子とは裏腹な史跡スポットです。
基本情報
名称:立命館草創の地(吉田屋跡)
場所:京都市上京区東三本木通丸太町上る東側
場所:京都市上京区東三本木通丸太町上る東側