平安時代建立された町衆の信仰厚いお寺
繁華街・四条烏丸から下がり、高辻通あたり。立派な石標があり、その奥に古い建物が。
通常のお寺の建築様式とも少し違うことに気づきます。前から気になりつつ、初訪。
つい最近、とあるパーティーで狂言の名門・茂山千五郎家の公演を鑑賞。その演目に『因幡堂・鬼瓦』というのがあり、それがこのお寺にまつわる内容であることを知り、実際来てみたいと思っていました。
つい最近、とあるパーティーで狂言の名門・茂山千五郎家の公演を鑑賞。その演目に『因幡堂・鬼瓦』というのがあり、それがこのお寺にまつわる内容であることを知り、実際来てみたいと思っていました。
長保5年(1003年)に建立された、真言宗智山派のお寺。
平安時代・長徳3年(997年)大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)が、因幡(現在の鳥取県)国司としての任を終えて帰京の途中、重い病に。
その時夢のお告げにより、因幡賀留津の海中から薬師如来像を引き上げたところ、病から解放。そのまま京へ持ち帰り、長保5年(1003年)に自宅を改造してこれを祀ったのが、お寺の始まりとされる。
このころ、平安京内では東寺・西寺以外の寺院建立を禁止されていましたが、貴族の持仏堂は建立が認められ、六角堂もその一つ。寺院に「堂」とつけられたのも、その由縁。
平安時代・長徳3年(997年)大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)が、因幡(現在の鳥取県)国司としての任を終えて帰京の途中、重い病に。
その時夢のお告げにより、因幡賀留津の海中から薬師如来像を引き上げたところ、病から解放。そのまま京へ持ち帰り、長保5年(1003年)に自宅を改造してこれを祀ったのが、お寺の始まりとされる。
このころ、平安京内では東寺・西寺以外の寺院建立を禁止されていましたが、貴族の持仏堂は建立が認められ、六角堂もその一つ。寺院に「堂」とつけられたのも、その由縁。
霊験ある薬師如来として、歴代天皇をはじめ、一般庶民の深い信仰をうけ、承安元年(1171年)高倉天皇により「平等寺」と命名。一般的には「因幡堂」「因幡薬師」の愛称で知られています。
本堂にはご本尊である薬師如来立像が安置され、度重なる火災の被害に遭いながらも難を逃れ、創建当初のもの。藤原時代の一木造りの優品で、国の重要文化財指定。また、日本三大如来の一つにも数えられ、他には長野善光寺の阿弥陀如来、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来があります。
堂舎は度々火災にあい、寺域も小さくなりましたが、明治元年(1868年)に再建されたのが今の本堂。
参拝後、こんな水みくじを発見。
霊験あらたかな薬師霊水に浸すというもの。
末吉でした。
明治に再建されたということで、装飾のきらびやかさもまたその当時のものということですかね。
狂言にも登場した鬼瓦がこちら。
明治時代まではお寺で毎年狂言が奉納されてたそうです。平成15年、開山千年法要の際狂言奉納が復活され、大好評だったとか。また復活することを期待したいですね。
明治時代まではお寺で毎年狂言が奉納されてたそうです。平成15年、開山千年法要の際狂言奉納が復活され、大好評だったとか。また復活することを期待したいですね。
因幡堂(平等寺) へのツイート
用事で通りかかったここ、こ、ここ、これはまさか、あ、あの「因幡堂」ですかぁ~~~!?!?Wikipediaによると新しい妻の正体が実は離縁した元の妻と気づかずに悪妻ぶりを並べ立てる夫と、正体を明かした妻に詰め寄られる夫の狼狽する様が見どころの狂言「因幡堂」の因幡堂〜!? pic.twitter.com/LaUeMZZBvt
— 京都学生狂言研究会KGKK (@kyogenkai) June 7, 2019