京都市内に唯一残る江戸時代の道標
すぐ近くには岩屋神社があり、その御旅所も。
目の前には名神高速道路。
かつては東海道57次だった!
そんな場所にこれが。
市内に残る唯一の一里塚。慶長9年(1604)に徳川家康の諸街道整備とともに、街道の両側に一里(3.75km)毎に目印として築かれた塚。塚上にエノキを植えて目印に。もと街道の両側にあった塚のうち,西側のものがこれ。東側は取り除かれてしまってます。
市内に残る唯一の一里塚。慶長9年(1604)に徳川家康の諸街道整備とともに、街道の両側に一里(3.75km)毎に目印として築かれた塚。塚上にエノキを植えて目印に。もと街道の両側にあった塚のうち,西側のものがこれ。東側は取り除かれてしまってます。
江戸から東海道53次と同じ道をたどり、大津あたりから分岐し大阪(高麗橋)へと続いた東海道57次がかつてありました。豊臣秀吉の時代に。その一部がこの奈良街道(京街道)。
というか、東海道57次があったとは知りませんでした。
というか、東海道57次があったとは知りませんでした。
直径4~5m,高さ1.8mの塚。塚の上にはかつて樹高約11mのエノキが植えられてたようですが、現在は切り落とされたのかこのような状態に。
昭和44年ごろの写真には、まだ現存していたみたいですね。
写真と同じ場所がこちら。全く様変わりした光景。現在ではもちろん信号や標識があり、その脇にはこの一里塚。時を経て、江戸時代と現在の道路標識が共存する場所。ちょっと不思議な感覚を覚えましたね。
大宅一里塚 へのツイート
水曜日に学校のすぐ近くの大宅一里塚の木 行きしなまみと倒れる瞬間みててまじでびっくりした🙀🌲 pic.twitter.com/hAHp8E9OOj
— MIZUKI (@MIZUKI__0420) 2016年9月23日
山科区大宅。奈良街道と名神高速道路がちょうどクロスするあたり。