歌聖と称された歌人・藤原定家の晩年の邸宅跡
卒業生には京都大学・大阪大学名誉教授でノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士が挙げられ、かつて湯川氏がこの界隈で暮らしていたことが、梨木神社にある湯川氏の石碑からもわかります。
そんな由緒ある小学校校舎の傍らに、なにやら石標と案内板があります。
そこには「此付近藤原定家一条京極邸跡」とあり、この場所はかつて藤原定家の京極邸のあった場所であることを示しています。
藤原 定家(ふじわらのさだいえ・ていか)は、平安時代末期~鎌倉時代初期(1162~1241年)に活躍した公家であり歌人。藤原北家御子左流、正三位の父・藤原俊成の二男にあたり、俊成もまた歌人でもあり、後白河院の勅命で「千載和歌集」を編集した人物。
定家の最終官位は正二位・権中納言、そして京極邸に住んでいたことから京極中納言と呼ばれていました。また『小倉百人一首』の選者でもあり、権中納言定家の名で自身の作品も残しています。
藤原 定家(ふじわらのさだいえ・ていか)は、平安時代末期~鎌倉時代初期(1162~1241年)に活躍した公家であり歌人。藤原北家御子左流、正三位の父・藤原俊成の二男にあたり、俊成もまた歌人でもあり、後白河院の勅命で「千載和歌集」を編集した人物。
定家の最終官位は正二位・権中納言、そして京極邸に住んでいたことから京極中納言と呼ばれていました。また『小倉百人一首』の選者でもあり、権中納言定家の名で自身の作品も残しています。
定家は九条家に出入りし、関白・九条兼実の次男・良経(1169~1206年)や天台宗僧・慈円(1155~1225年)の影響を受け、後鳥羽院(1180~1239年)に見出され、和歌の世界では「歌聖」とも称えられました。『源氏物語』の校正や、日記『明月記』を残し、その自筆本が孫・為相を始祖とする冷泉家に伝存されています。
京極邸は定家の晩年の邸宅で亡くなるまでをここで過ごし、『小倉百人一首』の原型の編纂の主要な作業をここで行ったと伝わっています。
すぐ近くには『源氏物語』の作者・紫式部の邸宅跡もあり、その時代の先端文学であふれる場所であったことが推しはかれます。来年の大河ドラマでは紫式部をテーマにストーリーが展開していくと言われ、和歌やこの界隈が注目されるかもしれませんね。
すぐ近くには『源氏物語』の作者・紫式部の邸宅跡もあり、その時代の先端文学であふれる場所であったことが推しはかれます。来年の大河ドラマでは紫式部をテーマにストーリーが展開していくと言われ、和歌やこの界隈が注目されるかもしれませんね。
詳細情報
名称:藤原定家一条京極邸跡
場所:京都市上京区寺町通今出川下る染殿町658
場所:京都市上京区寺町通今出川下る染殿町658
西に京都御所、東に鴨川、南に梨木神社があり、閑静な佇まいの場所。