智積院の北側にある猿が祀られた神社
東大路通り沿い。こんな立派な石塔と目印にした神社『いまひめじんぐう』と読みます。「しんひよし」じゃなく(笑)
1160年(永暦元年)後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、現在より南に創建。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは豊国神社が再興された1897年(明治30年)になってから。1958年(昭和33年)、後白河天皇を増祀し、翌1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。
しばらくなだらかな上り坂。古くは阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓付近中心を「鳥辺野(とりべの)」と呼び、北は五条坂、南は今熊野まで東山山麓から鴨川までのエリア。そして、この辺りはかつて京都で代表的な葬送地。
で、ようやく鳥居が。
そして、本殿脇には、狛犬ならぬ「狛猿(こまさる)」。猿の姿をした神様の使い、真猿・・・「魔去る」勝る=まさると称され、信者の災いを去る、というご利益が。なので、社務所の御守りも猿をモチーフにしたもの。
さらに奥にひっそりとある社「樹下社(このもとのやしろ)」は「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」とも呼ばれ、この樹下社に豊臣秀吉を信仰をする人々が訪れた。
江戸時代、豊臣秀吉に関するものはすべて壊され、禁止。しかし京都での秀吉人気は高く、隠れて崇拝する人がここに集ったという。まるで「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ太閤さん」。
もともとこの新日吉神宮は豊国廟社の跡地に建っていたこと、樹下社の「樹下」と、豊臣秀吉の旧名・木下藤吉郎の「木下」が同じ“音”を持っていること、そして「猿」が御神体だったことも、秀吉を祀った理由なんですかね。
もともとこの新日吉神宮は豊国廟社の跡地に建っていたこと、樹下社の「樹下」と、豊臣秀吉の旧名・木下藤吉郎の「木下」が同じ“音”を持っていること、そして「猿」が御神体だったことも、秀吉を祀った理由なんですかね。
新日吉神宮 へのツイート
豊国廟のある阿弥陀ヶ峰の麓、新日吉神宮へお参りに。後白河天皇と山王七社を祀ります。江戸時代に豊臣秀吉公の神像を密かに祀り続けていた樹下社があります。 pic.twitter.com/5WTfAtF7eG
— 新井あずき (@busaik) 2017年1月1日