牛若丸と弁慶の真の出会いの場所はココ!?
五条通。地元民には言わずと知れた、鴨川に架かる五条大橋。京都の橋の中でも幅広で交通量も多い、京都市内交通の要衝でもあり。
中央分離帯の一角にこんな牛若丸(のちの源義経)と弁慶像があり、ここがその出会い、決闘の場、歴史の動いた場所として知られています。
だがしかし、こんな説も。
だがしかし、こんな説も。
五条通より北にある松原通。その松原通に架かる橋『松原橋』。祇園、東山界隈の観光の際、この橋を渡ることしばしばですが。
ちょうど北には四条大橋、南に五条大橋があり、その間に架かる橋。他大橋と比べると幅も狭く、ある意味情緒あるというか(笑)
彼方には五条大橋も見えます。
じつはこの松原通、平安時代の五条大路であり、この松原橋はかつての五条橋。嵯峨天皇の勅命で清水寺参道へ続く橋が架けられたのが五条橋。当時はかなりの通行量の目ぬき通りだったとか。
じつはこの松原通、平安時代の五条大路であり、この松原橋はかつての五条橋。嵯峨天皇の勅命で清水寺参道へ続く橋が架けられたのが五条橋。当時はかなりの通行量の目ぬき通りだったとか。
通りの両側には松並木もあったことから、五条松原橋とも呼ばれていました。
安土桃山時代に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿造営の際、ここに架かる橋を平安京・六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え、五条橋と称した。そのため、名称から『五条』がはずれ、松原橋と呼ばれるように。
安土桃山時代に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿造営の際、ここに架かる橋を平安京・六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え、五条橋と称した。そのため、名称から『五条』がはずれ、松原橋と呼ばれるように。
つまり、伝説の牛若丸と弁慶の決闘の地はここのことを指すというのが、じつのところ正解ではないかと。
てっきり五条大橋で対決したイメージばかり膨らませ、広々とした空間でさぞや縦横無尽に決闘が展開したのだな、と思っていた方。イメージ修正してくださいね(笑)
てっきり五条大橋で対決したイメージばかり膨らませ、広々とした空間でさぞや縦横無尽に決闘が展開したのだな、と思っていた方。イメージ修正してくださいね(笑)
松原橋 へのツイート
京都鴨川にかかる松原橋。本来、こちらが五条通だったのですが、豊臣秀吉が方広寺の前の道を五条通にしたため「松原通」となりました。牛若丸と弁慶の五条の橋の戦い(能でいう《橋弁慶》)は、現在の五条橋ではなく、こちら松原橋だったとされています。今の五条橋にも銅像がありますけれど…(;^_^A pic.twitter.com/mrQCiLZIeN
— 柏木ゆげひ (@kashiwagiyugehi) 2018年11月6日