一世を風靡した日本画の巨匠・円山応挙邸宅跡
そんな四条通り沿いにあるみずほ証券前。
その一角に石碑と駒札があります。
この場所は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した京都随一の有名絵師・円山応挙の邸宅跡で、その史跡。この石碑は大正6年(1917年)に京都市教育会により建立されたもの。
この場所は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した京都随一の有名絵師・円山応挙の邸宅跡で、その史跡。この石碑は大正6年(1917年)に京都市教育会により建立されたもの。
応挙は、享保18年(1733年)丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)の農家の次男として生まれ幼少より画を好み、17歳で京都に出て狩野派の画家石田幽汀(ゆうてい)に入門。
20代では西洋画の遠近法を応用した技法の『眼鏡絵』を残している。このころ中国、宋元画の技術に影響を受け『応挙』を名乗り始める。さらに三井寺円満院門主や豪商三井家の加護を受け、数々の代表作を残し、近現代京都画壇の祖とも言われ、『円山派』と称されその源流にもなっています。そして、地元民として知るところの身近な作品には、祇園祭・月鉾の屋根裏に描かれた草花図が挙げられます。
20代では西洋画の遠近法を応用した技法の『眼鏡絵』を残している。このころ中国、宋元画の技術に影響を受け『応挙』を名乗り始める。さらに三井寺円満院門主や豪商三井家の加護を受け、数々の代表作を残し、近現代京都画壇の祖とも言われ、『円山派』と称されその源流にもなっています。そして、地元民として知るところの身近な作品には、祇園祭・月鉾の屋根裏に描かれた草花図が挙げられます。
この地に居を構えたのは、若い頃、近くの四条道場金蓮寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた関係からと伝わっています。かつてアトリエとしていた四条寺町の大雲院(現東山区祇園町)へ通うにも都合のいい立地だったとか。
寛政5年(1793年)応挙は病にかかり、その後に歩行の自由を欠き視力も衰えるも、毎年伏見の梅渓(うめだに。現伏見区桃山)へ梅見物に出かけたという。亀山侯依頼の名作「保津川図」を描いて間もなくの同7年(1795年)、63歳没。
円山応挙の来歴から、その才能故に超売れっ子絵師だったことがわかり、さらにかつての京都の町並みも今とは違う風情だったことが感じ取れます。そんなことが偲ばれる史跡ですね。
寛政5年(1793年)応挙は病にかかり、その後に歩行の自由を欠き視力も衰えるも、毎年伏見の梅渓(うめだに。現伏見区桃山)へ梅見物に出かけたという。亀山侯依頼の名作「保津川図」を描いて間もなくの同7年(1795年)、63歳没。
円山応挙の来歴から、その才能故に超売れっ子絵師だったことがわかり、さらにかつての京都の町並みも今とは違う風情だったことが感じ取れます。そんなことが偲ばれる史跡ですね。
基本情報
名称:円山応挙宅址
場所:京都市下京区四条通堺町東入南側
場所:京都市下京区四条通堺町東入南側
京都市内の中でも一際華やかで、百貨店や商業施設が立ち並ぶ繁華街・四条通。さらに銀行やオフィスビルも集中するビジネス街でもあり。そして、日本三大祭りの一つ、祇園祭の山鉾が建ち並ぶ通りでもあり。