かつての刑場・六条河原で悲惨な最期を遂げた殉教者たち
下京区、五条鴨川沿いを南下。
鴨川に架かる正面橋。東に向かって正面通をさらに進むと、豊臣秀吉ゆかりの豊国神社、方広寺に突き当たります。
『正面橋』や『正面通』の名称は、かつて方広寺にあった大仏の正面につながる、ということから由来します。
その正面橋を渡り、鴨川東側、川端通沿いの歩道を北上。
車道と歩道の境に生垣があります。
その途中に、わりと景観になじむようにスッポリと収まる赤茶けた石碑。
見ると、『元和キリシタン殉教の地』と書かれています。そして、他の面には『京都市文化観光局観光部振興課 寄贈 京都元和の記念碑を建てる会』とあります。
元和年間(1615~23)に、かつて刑場であったこの六条河原で、悲惨な最期を遂げたキリシタン殉教の地を示す石碑。
元和年間(1615~23)に、かつて刑場であったこの六条河原で、悲惨な最期を遂げたキリシタン殉教の地を示す石碑。
江戸幕府により、慶長17年(1612年)キリシタン弾圧が開始。翌年には京都にも波及し、大坂冬の陣(1614年)が起こるまで続いた。その後二回目の弾圧が元和年間(1615~23年)に起こり、元和5年(1619年)2代将軍・徳川秀忠(1579~1632年)上洛。その際、キリシタンには好意的であった京都所司代・板倉勝重がお目こぼし狙いに伏見にキリシタン投獄。それを知った秀忠は、老若男女容赦なく火あぶりの刑を命じ、52人が大八車に積み込まれ、この六条河原で悲惨な最期を遂げたという。
これ以後、京都でのキリシタンの歴史は消滅。
これ以後、京都でのキリシタンの歴史は消滅。
かつて、ここがそんな悲惨な舞台となった場所であったとは、現在の様子から微塵も感じられず、石碑だけがそれを物語っていました。
基本情報
名称:元和キリシタン殉教の地
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