京都島原を歩く!遊郭ではない日本最古の花街 揚屋は高貴な人々の大宴会場だった 

【昭和男子の京都時空紀行】京都市下京区の壬生寺の近くにある島原の大門。その奥はかつて日本最古と言われた花街でした。この地の正式な名は「西新屋敷」といいますが、花街が寛永18年(1641年)に「六條三筋町」から移転してきた際、その騒動の様子が数年前に起きた九州の島原の乱を思わせるようであったことから島原と呼ばれるようになりました。

目次

島原を歩きます

島原の大門

 かつて絢爛豪華な太夫道中が行われていた大門奥の風景も現在は閑静な住宅街が続いています。現在は輪違屋のみが置屋兼お茶屋の営業を行っています。幕府公認の島原の舞太夫は、知識、品格、遊芸とすべてにおいて極上で、大名や公家たちの相手を務めた芸妓の最高位だったと言われています。

島原の輪違屋に在籍する「如月太夫」

 2022年3月18日(金)~4月17日(日)まで行われていた「二条城桜まつり2022」では、島原の輪違屋に在籍する「如月太夫」が舞や「かしの式」などを披露しました。「かしの式」とは、太夫を置屋から呼び、客に紹介する式。太夫が盛装を凝らして盃台の前に座り、盃を回すしぐさを見せている傍らで仲居が太夫の名前を呼んで客に紹介するものです。

揚屋建築の遺構を残す「角屋」

 太夫は桶屋から太夫道中をして武家や公家、高貴な人々の大宴会場となっていた揚屋のお座敷に上がりました。角屋は唯一揚屋建築の遺構を残しています。現在は「角屋もてなしの文化美術館」となっています。2022年3月15日から7月18日まで一般公開が再開されています。

遊郭ではなく揚屋という大宴会場

 館長の中川清生さんに案内していただきました。中川館長は、「角屋は遊郭の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋という業種の店です。江戸時代、民間最大の大宴会場だったんですね。遊宴のみならずお茶会や句会なども行われ、文化サロンの役割をはたしていました。そこが宴会場を廃止して、娼妓のみとなっていった江戸の吉原などと違う点です。花魁ではなく芸妓の最高位、島原太夫となるわけです」と語ってくださいました。

長谷川等雲筆 唐子の図 

 角屋は、重要文化財に指定されている与謝蕪村の「紅白梅図」や円山応挙始め、当時の一流画人の作品を多く有しています。

新選組の刀傷

 角屋は幕末動乱の舞台ともなりました。新選組初代局長の芹沢鴨は文久三年(1863年)9月8日にこの角屋で行われた新選組局長たちの宴会の後に場所を移して行われた、壬生の屯所八木邸での宴会の後に暗殺されています。襲撃には近藤勇や沖田総司なども加わっていたと伝えられています。中川館長によると「新選組は、玄関の刀掛に刀を置かず部屋に持ち込んでいたらしい」と言います。

西郷隆盛が行水した桶

 西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王の志士たちが、軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行っていた場所でもあります。討幕派も新選組も同じ揚屋を使っていたのも面白いところです。

重要文化財の台所

 今回は、重要文化財の「台所」も一般公開されています。揚屋自体が大型化すると同時に、館内の装飾も絢爛豪華に彩られるようになりました。台所にも亀甲紋や青海波の装飾を施しました。角屋には、京にあった各藩邸の留守居役の着任離任の際の祝の振舞(もてなし)を記した献立帳も残されています。

臥竜松

 今回の企画では、「角屋蔵 吉祥の調度展」も同時に開催されています。角屋に多く残る絵画、染め織、漆器などから、岸駒(がんく)筆の「松竹梅図」や太夫衣装始め、絢爛豪華な吉祥文様の調度品などが惜しみなく展示されています。また京都市指定名勝の庭園では、樹齢380年の見事な黒松「臥龍松」も愛でることができます。

基本情報

名称:角屋もてなしの文化美術館 
住所:京都市下京区西新屋敷揚屋町32
電話番号:075ー351ー0024
HP:http://sumiyaho.sakura.ne.jp/