天下人・豊臣秀吉の治水整備遺構
宇治市、宇治川西岸。この日たまたま自転車で観光中、対岸の鬱蒼とした森を発見し、そこに野鳥・サギの群れを発見。なんだあれは、と思い、反対岸へ。
東岸、莵道エリア。『とどう』と読みます。この辺りの地名でもあり、かつてはこれを『うじ』とも呼び、それが地名『宇治』の由来とも言われています。
その由来となった5世紀初頭の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の宇治墓。さっき見た鬱蒼とした森は、この古墳、前方後円墳だったことが判明。
その由来となった5世紀初頭の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の宇治墓。さっき見た鬱蒼とした森は、この古墳、前方後円墳だったことが判明。
その向かい側。フェンスも張られ、工事中ですが。
その工事現場入り口にある石碑。『史跡宇治川太閤堤跡』とあります。まだ新しめの石碑で、平成21年に史跡指定。
かつてここには豊臣秀吉によって築造された、宇治川の治水に備えた堤がありました。豊臣秀吉は、文禄3年(1594)に完成した伏見城築城を契機として、宇治川・淀川等の付け替えなど大規模な治水工事を敢行。
宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方に流れ巨椋池に合流していましたが、北方に流れる流路にまとめ、伏見城下に導水。それに伴い、この辺りに堤(堤防)が設置。
この宇治川太閤堤跡は、16世紀末築造されたのち河川氾濫のため埋没。近代に新たに現堤防が築かれ河川範囲から外れたため良好な状態で遺構が見つかり、当時の治水・交通に関する施策と土木技術を具体的に示す貴重な遺跡として保存。
宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方に流れ巨椋池に合流していましたが、北方に流れる流路にまとめ、伏見城下に導水。それに伴い、この辺りに堤(堤防)が設置。
この宇治川太閤堤跡は、16世紀末築造されたのち河川氾濫のため埋没。近代に新たに現堤防が築かれ河川範囲から外れたため良好な状態で遺構が見つかり、当時の治水・交通に関する施策と土木技術を具体的に示す貴重な遺跡として保存。
その遺跡を含め、宇治の歴史・文化・観光や宇治茶に関する情報発信地として、現在歴史公園建設中で、今年末には完成予定とのこと。
今回は残念ながら、遺跡を目の当たりにすることは叶いませんでしたが、また施設完成後に訪れてみたいと思いました。
今回は残念ながら、遺跡を目の当たりにすることは叶いませんでしたが、また施設完成後に訪れてみたいと思いました。
基本情報
名称:宇治川太閤堤跡
場所:京都府宇治市莵道丸山77
場所:京都府宇治市莵道丸山77