日本初の幕府公認の遊女街玄関口・島原大門
花街である島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財。1867年につくられたもの。
150年ほどの年月を経ても、ほとんど当時のまま。
立派な「見返り柳」も健在。遊郭で遊んだ客が、名残惜しさにこの辺りで振り返ることからこの名前が付いたんだとか。
立派な「見返り柳」も健在。遊郭で遊んだ客が、名残惜しさにこの辺りで振り返ることからこの名前が付いたんだとか。
室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まり。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設。
江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出。1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたため、そう呼ばれるようになったんだとか。
享保17年(1732年)に西門も設置。現存する門としては大門のみ。
現在も営業を続ける現役お茶屋・輪違屋
現在もお茶屋として営業しており、島原で唯一の現役店・輪違屋。
創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まり、創業当時の名は「養花楼」。その後、明治5年(1872年)よりお茶屋業も開始。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿に。
創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まり、創業当時の名は「養花楼」。その後、明治5年(1872年)よりお茶屋業も開始。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿に。
かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみ。太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。表に「観覧謝絶」の札。いわゆる「一見さんおことわり」店。
元・揚屋(料亭)だった角屋
なんとも壮観な佇まい。1641年(寛永18年)竣工で、島原で最も古い建造物。国の重要文化財にも指定。
この路地も含め、しっぽりとした当時の雰囲気そのままに残す。
こちらは昭和60年までお茶屋として営業し、その後現在の『角屋もてなしの文化美術館』として公開。
今回は中には入りませんでしたが、江戸時代の華やかさを残す見ごたえある建造物。一見の価値あり。
幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待にも使用。
そして、新撰組ともゆかりが深く、芹沢鴨が酔って暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている。
わりと島原自体、規模の小さい花街。神社仏閣めぐりとは違った独特な風情が、また見応えあり。
ヨ~イヤサ~♪
そして、新撰組ともゆかりが深く、芹沢鴨が酔って暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている。
わりと島原自体、規模の小さい花街。神社仏閣めぐりとは違った独特な風情が、また見応えあり。
ヨ~イヤサ~♪
島原 への口コミ
京都は島原太夫さん。べっぴんさん。 pic.twitter.com/SDDOGBGFKZ
— 川井麻里衣 (@st_marii) 2016年9月17日