【京都ぶらり】豊臣秀吉時代のキリシタン殉教の足跡!かつての名残りも「妙満寺跡・二十六聖人発祥地」

汁物大好きな三杯目 J Soup Brothersです!FU~FU~☆彡今回は下京区、四条堀川の古い住宅街にある史跡。かつて豊臣秀吉時代のキリシタンの足跡となる場所。

目次

古い町並み残る住宅街路地裏にひっそり建つ石碑

下京区、交通量の多い四条堀川から一筋南にある綾小路通西へ。細い路地に住宅が密集し、古い家屋と近代的なビルが混在する場所。

その一角にある、近代的な建物。こちらは病院のようです。その病院の植え込み。

ひっそりと影を潜めるように建つ石碑。普通に歩いていたら見過ごしてしまうような存在感のなさ。

石碑には『妙満寺跡 二十六聖人発祥之地』と書かれています。かつてこの場所には法華宗総本山妙満寺がありました。永徳3(1383)年室町六条坊門に建立され、応仁の乱や天文法華の乱などで移転し、天文7(1538)年この地へ。さらに豊臣秀吉の時代に入り、大規模な都市整備に伴い、天正11(1583)年寺町二条(現在の京都市役所北市営駐車場付近)へ移転。
 

天正15(1587)年、秀吉はすでにバテレン追放令を発布していましたが、南蛮貿易の実利を重視し、宣教師たちが日本で活動を続けることを黙認。文禄2(1593)年秀吉の招きで来日したフランシスコ会ペトロ・バプチスタ神父は妙満寺跡地を与えられ、ここを拠点に布教活動を開始。この界隈には200人以上のキリシタン信者が移り住んだと言われ、「だいうす(デウス)町」と呼ばれていました。

慶長元(1596)年、難破したスペイン船が土佐浦戸に入港したサン・フェリペ号事件後、秀吉はスペイン軍による日本侵略を恐れ、キリシタンの捕縛を命じ、再びキリシタン禁教令発令。京都・大阪の日本人信者らとともに神父を捕え、長崎に送り処刑。のちに彼ら26名は聖人に列せられ、今では長崎にはその記念館もあります。

すぐ近くには、その名残りとなる教会もあり、オフィス街のビルの谷間に隠れわかりづらい場所ですが、歴史的にみても重要なスポット。

基本情報

名称:妙満寺跡 二十六聖人発祥之地
場所:京都市下京区 岩上通