縁切り祈願でおなじみの神社
東山区、東山安井にある通称『縁切り神社』として知られる神社『安井金比羅宮』。この日は周辺を散策中、確か参道や境内に桜の木が多数あったことを思い出し、桜開花パトロールにやってきました(3月6日時点)。それにしても「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」というド直球なPOPが燦然と輝いています(笑)
東大路通沿いの参道に桜並木があるわけですが、こちらはまだまだの様子。
境内は3月に入り、特に若い観光客でにぎわっていました。春休みということもあるんですかね。学生さんらしき方も多数来られていました。
この辺りの桜もまだ開花には早い様子でした。
この辺りの桜もまだ開花には早い様子でした。
まず、本殿へ参拝する前ですが、相変わらずの存在感に思わずニヤニヤするわけですが(笑)
こちらは全国的にも知られ、ここ安井金比羅宮の名物でもある『縁切り縁結び碑』。高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石。そこには願いが書かれた「形代(かたしろ)」という御札が無数に貼り付けられています。この時期だと若干御札少なめで、スリムな印象の巨石。夏頃だと、ちょっとした奇怪な生き物にも見えたり(笑)
こちらは全国的にも知られ、ここ安井金比羅宮の名物でもある『縁切り縁結び碑』。高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石。そこには願いが書かれた「形代(かたしろ)」という御札が無数に貼り付けられています。この時期だと若干御札少なめで、スリムな印象の巨石。夏頃だと、ちょっとした奇怪な生き物にも見えたり(笑)
そして、境内中ほどにある本殿。主祭神には崇徳天皇、大物主神、源頼政の三柱神を祀る。
神社の来歴は、天智天皇(668~671年)に藤原鎌足が仏堂を建立し、藤原家一門の繁栄を祈願、藤を植樹して藤寺と号したのがはじまり。
そして崇徳天皇(1119~1164年)との所縁深く、藤寺の藤を愛し寵愛した阿波内侍を住まわせたり。その後、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ流刑に。
崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂にたびたび怨霊があらわれたことから、建治年間(1275~1277年)後白河法皇により光明院観勝寺が建立。さらに江戸時代太秦安井にあった蓮華光院の讃岐金比羅宮より勧請した金毘羅権を合祀。
さらに源頼政が合祀されたのは、打倒平家に燃え頼政に補佐されて挙兵した高倉宮以仁王の遺児が蓮華光院の初代道尊僧正であったためと考えられています。
その後、荒廃や大火も経て明治維新の神仏分離で安井神社に改組され、併せて祭神の金毘羅権現は大物主神に改め、第二次世界大戦後には「安井金比羅宮」と改名され現在に至る。
神社の来歴は、天智天皇(668~671年)に藤原鎌足が仏堂を建立し、藤原家一門の繁栄を祈願、藤を植樹して藤寺と号したのがはじまり。
そして崇徳天皇(1119~1164年)との所縁深く、藤寺の藤を愛し寵愛した阿波内侍を住まわせたり。その後、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ流刑に。
崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂にたびたび怨霊があらわれたことから、建治年間(1275~1277年)後白河法皇により光明院観勝寺が建立。さらに江戸時代太秦安井にあった蓮華光院の讃岐金比羅宮より勧請した金毘羅権を合祀。
さらに源頼政が合祀されたのは、打倒平家に燃え頼政に補佐されて挙兵した高倉宮以仁王の遺児が蓮華光院の初代道尊僧正であったためと考えられています。
その後、荒廃や大火も経て明治維新の神仏分離で安井神社に改組され、併せて祭神の金毘羅権現は大物主神に改め、第二次世界大戦後には「安井金比羅宮」と改名され現在に至る。
境内の一番北。
今まであまり気づかなかった場所に史跡らしきものが。
今まであまり気づかなかった場所に史跡らしきものが。
こちらは『久志塚(櫛塚)』。
古くなったり傷んだりした櫛やかんざしに感謝し供養する場所。毎年9月26日には櫛まつりが執り行われ、祭事の際ここに櫛を納めると美顔の御利益にあやかれるとか。さらに拝殿では舞踊も奉納され、伝統の髪型と風俗衣装をまとった時代風俗行列が祗園界隈を練り歩くという行事。
古くなったり傷んだりした櫛やかんざしに感謝し供養する場所。毎年9月26日には櫛まつりが執り行われ、祭事の際ここに櫛を納めると美顔の御利益にあやかれるとか。さらに拝殿では舞踊も奉納され、伝統の髪型と風俗衣装をまとった時代風俗行列が祗園界隈を練り歩くという行事。
そうしているうちに、縁切り縁結び碑には大行列ができ、皆穴をくぐりながらお祈りをし、最後に御札を貼り付け記念撮影されたり。ちょっとしたアトラクション的要素もありますが、御札の中には深刻な願いもあり、やや複雑(汗)それだけ人間関係にまつわる悩みや願いが多い、ということですかね。
旅の思い出にもなる体験かもしれませんね。ご参考に!
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