江戸時代の古地図をたよりに幻の西洞院川を追跡
その中でも、黒く描かれている川の注目。つい最近散策した堀川の東側、三条あたりから流れる一筋の川。ちょうど西洞院通あたり。
京都人でも知らない人多数だと思いますが、調べてみると、かつて「西洞院川」が存在したとか。その痕跡を探しに行ってみることに。
京都人でも知らない人多数だと思いますが、調べてみると、かつて「西洞院川」が存在したとか。その痕跡を探しに行ってみることに。
古地図によると、三条西洞院下がったあたりから川が描かれています。湧水が川になっているということでしょうか。
ちょうど、そのあたりに以前名水をめぐるシリーズで訪れた、創業明治3年の黒染め専門店。ここには千利休も愛した井戸水「柳の水」があります。
ちょうど、そのあたりに以前名水をめぐるシリーズで訪れた、創業明治3年の黒染め専門店。ここには千利休も愛した井戸水「柳の水」があります。
一度も枯れることなく今も現役で染色や飲料水として活用されている名水。昔からこのあたりは水量に恵まれた場所だったことがわかります。
さらに南下して四条西洞院。この辺りまで来ると、道幅も広めで繁華街でもあり。川が流れていたような痕跡は見当たらず。
さらに南下。
この界隈には染物業や染工が集中しています。かつて、このあたりの特産である染物や『西洞院紙』と呼ばれる紙づくりにも西洞院川の水が活用されていたとか。
西洞院通の両側に、新町通と油小路通がありますが、いずれも高低差があり、ちょうどその真ん中を走る西洞院通が窪地になっていることがわかります。その地形からも、川が流れていたのではないか、と察することができます。
途中、松原通にある五條天神社。
そこにある、神社の詳細を記した駒札。
延暦13年(794年)、平安京遷都の折、空海が勧請し創建。創建当初は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称。社号の『五條』は、現在の松原通がかつて五条通であったことに由来する。
延暦13年(794年)、平安京遷都の折、空海が勧請し創建。創建当初は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称。社号の『五條』は、現在の松原通がかつて五条通であったことに由来する。
その中に、弁慶と牛若丸が出会った五条大橋にまつわる件。それが、現在の松原橋の位置に架かっていた橋であることは有名ですが。
その橋が、この五條天神社東側に流れていた西洞院川に架かっていた橋である、という伝説があるとか。
たしかにここに西洞院川が流れていたことが判明。古地図上ではまっすく川は南下し、鴨川で合流していたようです。今ではまったくその面影はありませんが。
他にも、こんなふうにかつて存在し、今では消えてしまった川もあり、そんな水脈を探しながら街歩きするのも面白いですよ。
たしかにここに西洞院川が流れていたことが判明。古地図上ではまっすく川は南下し、鴨川で合流していたようです。今ではまったくその面影はありませんが。
他にも、こんなふうにかつて存在し、今では消えてしまった川もあり、そんな水脈を探しながら街歩きするのも面白いですよ。
西洞院川 へのツイート
四条西洞院下ルから杉本家住宅を望む。かつて西洞院川があったため、これだけの段差がある pic.twitter.com/p4gtOhsVNx
— 山田崇仁 (@TakahitoYamada) December 6, 2018
これを眺めて、現在の京都の地図と照らし合わせ、その違いを探したりする楽しみもあるわけですが。