戦国武将・明智光秀の最期の地『明智藪』近くの城跡
ですが、最近の調査では、織田信長の近臣であり、かつてこの辺りに存在した小栗栖城の城主・飯田氏の率いる武士集団の襲撃に遭い、光秀は最期を迎えたとの説も。
今回は、その説を裏付けるような史跡を求めてこちらへ。明智藪からもスグの場所。こちらにも大河ドラマののぼりが立っています。
鬱蒼とした小高い山へ続く階段を上ると、鳥居があります。
『小栗栖八幡宮』と書かれ、このあたりの鎮守社のようです。さらに石段が続き、山手へと参道が続きます。
ちょうど上がりきった場所に広がる境内。傾斜を利用した境内で手前に手水舎らしき建物と、さらに上段に本殿らしき建物。社務所らしき建物はなく、無人状態。
比較的新しい雰囲気の手水舎。
その天井部分から、神社の由緒らしき手書き案内板が設置。
これによると、貞観4年(864年)清和天皇の勅命により、武内宿禰の末裔、紀古道が関東守護職につき、男山八幡宮の分霊を勧請し、この地に小栗栖八幡宮を創社したと伝わる。
弘和2年(1382年)以降、飯田氏が神主を務め、飯田氏の屋敷、小栗栖城もあったとか。現在では石垣のみ残る、と。
弘和2年(1382年)以降、飯田氏が神主を務め、飯田氏の屋敷、小栗栖城もあったとか。現在では石垣のみ残る、と。
ただ、足利時代に社領36石あり、室町将軍滅亡後当社も衰え天文6年(1537年)社頭が焼亡、とあり、その45年後となる天正10年(1582年)本能寺の変の時期、飯田氏の勢力は温存されていたのか、という疑問は残ります。
見渡すとこちらがその石垣のようです。途中補強されたのか、新しい石垣部分もつなぎ合わせた箇所もありましたが、こちらは中でも古そうな石垣。
その石垣上にある本殿。
本殿の社は比較的近年のもののようにも見えますが、かつてこの場所に城があったのか、はたまた手水舎あたりにあったのか。
本殿の背景には、さらに山が続きます。
本殿の背景には、さらに山が続きます。
境内には他、古い家屋もあり、御神輿もかつてはあったのか、奉納庫スペースらしき建物ですが。
城がかつてあったことを示す石垣からも、この辺りを支配していた織田信長の近臣・飯田氏の存在を示し、光秀が飯田氏の率いる武士集団の襲撃に遭い最期を迎えた、という説も否定できません。果たして、ドラマ最終回はどんな展開で幕を閉じるのか、期待が高まりますね。
城がかつてあったことを示す石垣からも、この辺りを支配していた織田信長の近臣・飯田氏の存在を示し、光秀が飯田氏の率いる武士集団の襲撃に遭い最期を迎えた、という説も否定できません。果たして、ドラマ最終回はどんな展開で幕を閉じるのか、期待が高まりますね。
基本情報
名称:小栗栖城跡(小栗栖八幡宮境内)
場所:京都市伏見区小栗栖宮山
場所:京都市伏見区小栗栖宮山
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で天下を征服。その後明智軍は6月13日に京都山崎において天下分け目の合戦『山崎の合戦』で豊臣秀吉軍に敗れ、近臣十余名と共に坂本城を目指し、落ち延びる途中この小栗栖にて落ち武者狩りの百姓に襲撃され致命傷を負い、自害したと伝わっています。