ある意味奇祭☆須賀神社・節分祭
度重なる戦火を避け、近くの吉田山に移され、鎮座すること590年間。明治時代の廃仏毀釈によって、社名「須賀神社」に改め、大正13年(1924年)に元の御旅所だった現在の地に社殿が建てられました。
昭和39年(1964年)に久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を分祀し、この三柱を主祭神として日本で唯一の交通神社を創建。
平成17年(2005年)には本殿と拝殿が焼失。すぐに再建され、向かって右側を須賀神社、左側を交通神社とする造りに。
平成17年(2005年)には本殿と拝殿が焼失。すぐに再建され、向かって右側を須賀神社、左側を交通神社とする造りに。
ちょうど節分限定の御朱印も授与されています。
そんな須賀神社の節分祭ポスターがこちら。
烏帽子に水干姿のちょっと怪しげな人が女性に何やら手渡している画。
烏帽子に水干姿のちょっと怪しげな人が女性に何やら手渡している画。
その方が境内にいました!どうやら新手の鬼ではなさそうです(笑)
そして、手には梅の木と須賀神社縁結びお守り『懸想文(けそうぶみ)』と書かれたものを抱えて。
そして、手には梅の木と須賀神社縁結びお守り『懸想文(けそうぶみ)』と書かれたものを抱えて。
懸想文とは昔で言うラブレターのこと。かつて江戸時代に、烏帽子に水干姿で梅木の枝に文をつけ、覆面をして売り歩いた懸想文売りなるものが京の街を賑わしていたと言われています。その時代の風俗行事とか。
その懸想文は縁談や商売繁昌などの願いをかなえるお札で、それを人知れず鏡台や箪笥の引き出しに忍ばせておくと、容姿端麗になり良縁に恵まれるというご利益が得られる、と京都の女性たちがこぞって買い求めたと言われています。
明治維新以降、この風習はなくなってしまいましたが、縁結びの神様である須賀神社で引き継ぎ、こうして節分の時期限定で授与されています。
その懸想文は縁談や商売繁昌などの願いをかなえるお札で、それを人知れず鏡台や箪笥の引き出しに忍ばせておくと、容姿端麗になり良縁に恵まれるというご利益が得られる、と京都の女性たちがこぞって買い求めたと言われています。
明治維新以降、この風習はなくなってしまいましたが、縁結びの神様である須賀神社で引き継ぎ、こうして節分の時期限定で授与されています。
で、私もじきじきに懸想文いただきました。1500円は少々お高めなようにも思えますが、これで容姿端麗になって良縁につながるなら願ったり叶ったり。と、どこまでも強欲マイウェイです(笑)
境内では『須賀多餅』という和菓子も限定販売されています。
試しにこちらも購入してみました。柚子味と梅味の二種類。『すがたもち』というくらいですから、これ食べたらキレイになれるんでしょうね。えぇえぇモリモリ食べますとも!!笑
試しにこちらも購入してみました。柚子味と梅味の二種類。『すがたもち』というくらいですから、これ食べたらキレイになれるんでしょうね。えぇえぇモリモリ食べますとも!!笑
そして帰宅後、その懸想文の包みの中を見てみました。
折りたたまれた懸想文がこちら。その内容についてはネタバレになり、ご利益半減しそうなので差し控えるとして。
良縁に恵まれたい方は今すぐ直行してください!節分祭限定です!!
折りたたまれた懸想文がこちら。その内容についてはネタバレになり、ご利益半減しそうなので差し控えるとして。
良縁に恵まれたい方は今すぐ直行してください!節分祭限定です!!
以前参拝した際、一風変わった節分祭を執り行う神社として有名であることを知り、今回は節分時期にやってきました。
貞観11年(869年)、今の平安神宮敷地内の北側に創建。明治以降に平安神宮は創建されたので、その当時はなかったわけですが。かつて須賀神社は、東天王社(現在の岡崎神社)に対して、西天王社と称されていました。