『本能寺の変』の後、徳川家康が逃亡に使ったルート
すると、少し開けた道の交差点。と言っても、山中ののどかな風景が広がり、とても静かな場所。アスファルトの道路もあり、周辺には畑が広がる農道もあり。
そんな場所にある案内板に『家康・伊賀越えの道』とあります。
大河ドラマでも描かれ、日本史上最大のミステリーと謳われる「本能寺の変」。主君・織田信長を襲撃し、天下をおさめた家臣・明智光秀によるクーデター事件。その真相は今も明らかになっておらず、大河ドラマの中でもどう描かれるか最終回予想もされたほど。その本能寺の変の一報を聞き、織田側についていた徳川家康はこの伊賀越えの道を使い、逃亡したと伝わっています。
大河ドラマでも描かれ、日本史上最大のミステリーと謳われる「本能寺の変」。主君・織田信長を襲撃し、天下をおさめた家臣・明智光秀によるクーデター事件。その真相は今も明らかになっておらず、大河ドラマの中でもどう描かれるか最終回予想もされたほど。その本能寺の変の一報を聞き、織田側についていた徳川家康はこの伊賀越えの道を使い、逃亡したと伝わっています。
天正10年(1582年)、信長の招待を受け、本能寺の変の起こる数日前から畿内各地を見物中だった家康は、泉州・堺で事件の知らせを聞きました。この時、家臣は本多忠勝・服部半蔵・武田氏の旧臣穴山梅雪等わずか30人余りの少数。太刀打ちできるような状態になく、一旦本国三河に戻り、戦略を立て直そう、と。
一行は、堺から伊賀越えをし、伊勢から航路で三河に渡り帰還。その際、信楽へ続くこの道を通ったと言われています。周辺を見渡すと、鬱蒼とした緑の山道で、いかにも落ち武者狩りの土民が待ち構えていそうなロケーション。きっと、鬼気迫る脱走であったことが偲ばれるような場所。
現在では、この近くの観光スポットをはじめ、この伊賀越えコースも山城と近江を結ぶ交通路「信楽街道」のルートを基に、全行程距約8km、所要時間約5時間かかる、モデルコースとして設定。
今回はチラッとここだけの散策でしたが、実際全域を歩いてみて家康気分を味わってみたいな、と。これからの行楽シーズンに良さそうな散策コースです。
そんな場所を観光中、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも注目された場所がある、というのでやってきました。途中、山の斜面の茶畑を目の当たりにしたり、アスファルトながら山道を歩きつつ、そこを目指します。